第二章 目 次 2.1 気体 2.2 液体 2.3 原子の世界 2.4 固体 2.5 物質の平衡
2.6 原子の崩壊 コーヒータイム(2)諺 編集後記(第二章)
1895年のレントゲンによるX線の発見の後、翌年ベクレルは、ウラン化合物の結晶からX線と似たもの(後にβ線と分かる)が放出されていることを発見する。その後この放射線の透過性の強さはウランが単体や化合物、また結晶や水溶液であることに関係なく、ただ試料中のウランの含量に比例することが明らかとなった。このように天然の物質が自らX線のようなものを放出する性質をキューリー夫妻は放射能と名付けた。それから2年後、キュリー夫妻は新しい放射性元素「ポロニウム」を発見し、さらにこれよりも強い放射性物質「ラジウム」を発見した。そして1900年にベクレルはウランが放射能を発しながら他の原子に変換されていくことを示唆している。そしてベクレルはベータ線が電子であることを確認し、ポール・ヴィラールはγ線が電磁波であることを明らかにする。この年の翌年にはP・キューリーはラジウムが放射するエネルギーを計算しその膨大さを指摘する。しかし原子構造の詳細はまだ不明であり、このときはこれを単に原子エネルギーと呼ぶにとどまった。1902年ラザフォードとソディはウランとトリウムを追求し、これらが中間元素を経て放射性崩壊することを確認する。1906年になってラザフォードはそれまで不明であった放射線の中のα線の性質を調べそれが、ヘリウムの核であることを明らかにする。そして1911年には金箔にα線を照射し、有核原子模型の理論を提唱する。しかし実験を基礎にした理論であったが原子の安定性を説明できないという難点があった。それを1913年、ボーアによって一応の解決を見るがそれでも矛盾は解決しない。これ以降、ド・ブロイやシュレディンガーなどが超難解な理論を展開する。
放射線と原子の崩壊
α線 は中性子2個と陽子2個からできているヘリウムの原子核であり、これを放射してα崩壊が起こる。この崩壊では、原子番号が2小さくなり質量数が 4
小さくなった新しい元素ができる。α線はエネルギーは大きいが、透過力が弱く紙1枚で遮断できる。空気中では数cm飛ぶと止まる。ゆえに外からα線を浴びても、皮膚でさえぎられ人体に害はない。しかし体内でα線が放出されると直接組織や臓器に影響を与え、胞核やDNA
を傷つけ、 癌等の原因となり危険である。
β線 は電子の流れであり、電子を放出してβ崩壊を起こす。このとき中性子1つが陽子に変換し、原子番号が1増加した新しい原子になる。質量数は変化しない。
γ線 は原子核から放出される高エネルギーの電磁波である。γ線の放出はα崩壊またはβ崩壊の際、付随して放出される。γ線のエネルギーとは光子エネルギーを意味する。
中性子線 は中性子が原子核から放出されるときに中性子線になる。
半減期 放射線を出し安定な物質に変化していく放射性物質を放射性同位体という。そして時間と共に放射能の強さは徐々に弱くなり、その強さが最初の半分になる時間を半減期という。放射性物質には自然のものと人工のものがある。この半減期は圧力や温度、化学処理などでは変わることがない。逆にこれを利用して、放射性同位元素を年代測定に利用する。
これらの関係は次式で表される。
N=N0×(1/2)t/T
N : 残存量 、 N0 : 最初の量
T : 半減期 、 t : 時間
例 題
ラジウムの半減期は1600年である。最初50 g のラジウムが 15 g になるまでには何年必要か。
【解】 データを数式に入れると 15 =50 ×(1/2)t/1600
となり変形すると 15/50 = (1/2)t/1600
この 両辺の対数をとると
log 0.3 = (t/1600)log (1/2) これより
log 0.3/log 0.5 = t/1600 故に 1.737=t/1600
t=1.737×1600 =2779 年
1919 年ラザフォードはα線の到達距離の実験をして窒素原子が酸素原子に変わることを発見した。物質の最小単位は原子でありそれは変わらないはずであったが、これが人工的に原子を他の原子に変換した最初の実験である。そしてこのときラザフォードは原子核にはまだ発見されていない中性粒子(中性子)らしきものの存在を示唆していた。
この時代(1930年)はまだ粒子加速器は発明されていない。原子核反応の実験をするために必要なα線を得るには天然のラジウムやポロニウムに頼るしかなかった。しかし当時これを入手するのは容易なことではない。そんな状況でもボーテとベッカーはα線をベリリウム箔にぶつけ、そこからγ線が出ることを確認する。透過力が非常に強く中性だからγ線と判断した。しかしこの現象は従来の知見からすれば、前代未聞の現象である。J・キューリー夫妻もまた同じ実験を行いこの現象を確認する。そしてこのγ線をパラフィンに当てると水素原子核(陽子)が放出されることを知る。これもまた奇妙な現象であった。入射エネルギーより放出エネルギーの方が桁違いに大きいからである。陽子をはじき飛ばすには同じ程度の粒子の大きさ(エネルギー)が必要である筈だが、しかし同夫妻はこれを多分コンプトン散乱※1であろうと片付けてしまった。これらの実験結果を知り、チャドウイックもまた同じ実験を試みる。彼はパラフィン以外に窒素ガスも実験材料にし、そのとき多数の窒素イオンを検出した。
彼はやはり入力より出力が大きいというエネルギー保存則に反する予想外の結果から、ベリリウムから放射されているのはγ線ではないと推定する。そしてかってラザフォードが示唆していた中性子ではないかと仮定した。この仮定に基づきさらに実験を進めてこの粒子の質量を求め、中性子であることを明らかにする。1932年これは論文として発表され、後に彼はノーベル賞を受ける。そしてこの中性子の発見がきっかけとなり原子爆弾の開発が急速に促進されていく。
もう一歩というところで中性子発見の栄誉を得られなかったJ・キューリー夫妻は引き続き原子核反応の実験を続けた(1934年)。そしてベリリウムの代わりにアルミニウムを選んだ。その結果アルミニウムから中性子と陽電子が出ることを観測する。しかもそれはポロニウムの照射源を取り去っても、数分間続いた。この現象もまた従来の知見からすればあり得ないことであった。これはアルミニウム(原子番号13)が燐(原子番号15)になり放射線を出していることがわかった。放射能を出す燐は天然には存在しないからこれは放射性元素を人工的に作り出したことになる。これにより夫妻はノーベル賞を得る。
このニュースを聞いたフェルミはさらに進んだ実験を試みる。ポロニウムからは高速のα粒子が放射されるが、これの代わりに彼は中性子を原子にぶつけた。α粒子は電気を帯びているが、中性子は電気的に中性である。これが功を奏しJ・キューリーが発見した特定の燐だけでなく、あらゆる元素が放射化され、しかも容易であることもわかった。そしてもっとも重い元素ウラン(原子番号92)にねらいをつけるのは当然の成り行きかも知れない。それは超ウラン元素※2を作る試みであるが、しかしこれは困難を極める研究である。超ウラン元素ができたとしてもごくわずかであり、天然ウランにはすでにポロニウムやラジウムが超微量だが含まれている。さらにウラン自体が放射性元素であり、自ら崩壊し別の元素に変わる。
故に超ウラン元素の存在を確認すること自体が難しいからであり、彼のもくろみは実現しなかった。
しかしこの実験の中で中性子の速度が遅いほど原子核に吸収されやすく、またこの場合放射化された物質が放射する強度も大きいことが判明した。そしてこの中性子照射という方法は以後の原子核破壊実験の常とう手段となった。この一連の研究によりフェルミはノーベル賞を受賞する。
※11923年にコンプトンが発見した「コンプトン効果」で、光の粒子性を説明するもの。
※2ウラン(原子番号92)は最も重い天然の放射性元素であり、これより番号の大きいものを超ウラン元素という。
1934年、ドイツ(ハーン、シュトラスマン)、フランス(J・キューリー夫妻)、イタリア(フェルミ)等は原子核に中性子を照射して超ウラン元素を作るというこの難しい研究を始めた。中性子を発生するサイクロトロンはすでに1932年にローレンスにより発明されていた。そしてハーンとシュトラスマンは期待した超ウラン元素ではなく、逆に遙かに軽い元素(バリウム)が生じていることを確認する(1938/12)。それはまさに核分裂であり、中性子で核分裂が起こるという全く予想もしない、想像を絶する結果であった。それは鉄の玉が卓球ボールにぶつかって半分に割れたような現象だからである。そしてこの分裂における放出エネルギーが従来の化学爆薬より桁違いに大きい(約1億倍)こともわかった。超ウラン元素を作るという世紀の大発見的もくろみは中性子で原子核が破壊されるというとんでもない方向へと変ってしまった。他の学者も同じ実験を行いながらこの重要な結果を見落としていた。それはウランに中性子をぶつければ、ウランより原子番号の大きい超ウラン元素ができるものと信じ込んだためのようである。とにかくこの発見は論文として発表された。ボーアもフェルミもサイクロトロンを用いて追試を行い核分裂を確認する。ハーンは核分裂発見でノーベル賞(1944)を受賞した。
核分裂により膨大なエネルギーが放出される。この核分裂のニュースを知り、オッペンハイマーはそれが仮に短時間に連鎖反応を起こすなら爆弾になりうると想定した。しかも遅い速度の中性子でよいならなお都合がよい。最初の核分裂で中性子が発生し、その中性子がさらに次の核分裂を生じさせる。このようなネズミ算式の増加をするためには発生する二次中性子が2以上でなければならない。さらには発生した中性子はすべてウラン原子に吸収され、吸収されれば必ず分裂を起こす。そしてこれらが瞬時に生じるというような条件が揃えば原子爆弾になる。最初の一回の中性子照射でよく、サイクロトロンなどで照射し続ける必要はない。さらにシラードは中性子が発見された翌年(1934)にすでに連鎖反応が起これば爆弾になる可能性を想定していた。1939年9月には第二次世界大戦が勃発したが、これ以前に核分裂や連鎖反応に関する論文が多く発表され、これらの危険なニュースは秘密にされることなく全世界に広がった。日本も例外ではない。
放射性物質が崩壊する過程で生じる物質には、化学的性質が同じで質量のみ異なるものがある。これを同位体という。中性子が発見される 20 年程まえにソディ(ノーベル賞受賞)が発見した。
原石のウランはいわゆる天然ウランであり、これにも同位体(U235、U238)がある。アルフレッド・ニーアは精密な質量分析器を用い天然ウランを分析し、その結果 U235 が0.7%、U238 が 99.3 % という比率を求めた。
ウラン(U238)が中性子を吸収した場合、それが高速(高エネルギー)の時以外は分裂しない。分裂しない吸収を共鳴吸収という。一方ウラン(U235)はどんな速度の中性子でも吸収すれば分裂を起こすが、それでも中性子の速度が遅いほど U235 に吸収される確率が大きくなる。
1939年4月、ジョリオやシラードその他が連鎖反応を起こすのに必要な二次中性子の発生を確認する。 その二次中性子の数も 3.5 個(後に 2.6
個に訂正)と判明した。核分裂が発見されてからわずか半年後の事である。しかし二次中性子の発生は確認されたが、これが即、連鎖に繋がるという確認ではない。つまり二次中性子が装置外に逃げたり、無駄な消費にならなければ連鎖は可能である。
U238 は高速の中性子(100万電子ボルト以上)を吸収して分裂を起こす。それならば U238 がほとんどの天然ウランならそれを吸収して連鎖反応が起きるはずである。しかしそうはならない。吸収された中性子は非弾性衝突を起こし、一部が熱に変わり跳ね返される。これが繰り返されると中性子は低速になってしまいU238にはもう使えない中性子になり、連鎖は金輪際生じない。それならば
U235 のみを対象に考えてみる。
中性子を U238 に吸収されない程、減速してしまえば今度はそれが U235 にのみ吸収される筈である。
U238 は無視して U235 だけを相手にするのである。中性子を減速させるためには、それと同じ程度の質量を有する原子核が最も効率がよい。それは水素であり、つまり水である。水(減速材)の水素原子核にぶつかることで中性子が減速され、それが繰り返えされることで減速量が大きくなる。平衡すると温度が一定となりそれ以上減速しない低エネルギー(0.03電子ボルト)になる。これを熱中性子という。しかしこの現象はもっとやっかいな問題を生じさせる。水素の原子核に中性子がぶつかると吸収して同位体(質量数
2、、陽子 1、中性子 1)となり、こうなると中性子が無駄に消費されて連鎖が止まるからである。この水素の同位体からなる水を重水といい、天然にも
0.015 % 存在している。重水がさらに中性子を吸収することはない。それならば最初から重水を使用すればよい。しかしそれには重水の濃度を高めなければならない。これもまた容易なことではないがしかし重水は優れた減速材である※1。それならばと別の材料をさがして候補に上がったのがグラファイト(炭素)である。しかしこれを使用しても思うようにはいかない。シラードやフェルミが行ったこれら一連の実験でも連鎖反応は確認できなかった。その確認ができれば原子爆弾の可能性はますます強くなる。そして翌年イギリスでは核連鎖反応の研究に本腰を入れ始める。
※1 当時なぜかノールウェーにノルスク・ハイドロという重水生産工場があった。これが後に重水が重要になると世界で唯一のこの会社は、戦争に巻き込まれることになる。
天然ウランを利用して連鎖反応を行わせるには減速材が必須である。U238 に中性子を無駄に消費させないためと U235 への吸収確率を高めるためである。しかし減速材を使用すると反応に時間がかかり爆弾にはなり得ない。当然減速材不要の U235 だけをと考えるのは当然である。だが濃度が 0.7 % ではどうにもならないから濃縮するしかない、という結論になる。しかしそれはまだ全くの白紙である。
故に当時の科学者は戦争中に原子爆弾が製造できるとは考えていなかったようである。しかしその可能性は存在しているのであり、もしドイツに核爆弾の開発を先行されたらという懸念があり、シラード他アメリカに移住した物理学者達はアインシュタインを介して当時のルーズベルト大統領に原子爆弾開発を促した(1939)。仮に濃縮ウラン(90%以上)※2 ができたとして、爆弾にするには最低どれだけの量が必要(臨界質量※3)になるかも計算しなければならない。フリッシャはこの量を 1 kg と算出した。またパイエルスは天然ウランを使用したと仮定してその臨界質量を数トンと算出した。しかしこれでは重すぎて爆撃機では運べない。また臨界質量に達した濃縮ウランを放置すれば直ぐに爆発してしまう。この起爆という対策も必要である。しかしこの対策は容易に考えられる。つまり
1 kg を半分にして離しておくと臨界質量以下であるから、爆発しない。爆発させたいときに、これを高速で合体させると臨界質量となって瞬時に爆発する。これらをどう実現するかという設計だけの問題となる。
※2 原子力発電などに利用する場合の濃度は 3〜4 % である。
※3 核分裂物質を集めた場合、ある量に達すると自然に爆発する最低の量のこと。
ウランに中性子を照射し、超ウラン元素を作る試みから核分裂が発見されたが、超ウラン元素を作る研究は続けられていた。高速の中性子を照射するからウラン
238 は分裂したが、低速の中性子は吸収される。サイクロトロンの中性子をパラフィンを通過させて減速し天然ウランに照射する。このような方法でマクミランはついに超ウラン元素を発見した(1940年)。周期表には存在しない人工の放射性元素である。彼はこれにネプツニウムと名付けた。原子番号93、質量数
239 であり、半減期2.35日である※4。
放射性であるからこれも時間とともにβ崩壊し他の元素に変わっていく(2.6.1節、放射線と原子の崩壊[囲み]参照)。彼はそれが原子番号 94 の別の元素になると想定したがそれを確認することはできなかった。この超ウラン元素の発見で彼はノーベル化学賞を受賞する。一方シーボーグはやはり同じ研究を行い、原子番号94
の新元素の確認を行う。ネプツニウム(原子番号 93 )の崩壊により生じたものであり質量数は 239、プルトニウムと命名された。超ウラン元素として
2 番目に発見され、彼もまたノーベル化学賞を受賞する。プルトニウムはウラン 235 と同じくどんな中性子に対しても核分裂を起こしやすい。つまり原子爆弾の材料となる。しかも役立たないウラン
238 に中性子を照射すればいくらでも生産可能である。後に原子力発電に利用されるウランは燃料として消費すれば比例してプルトニウムが増える。燃料を消費すればさらに燃料が増えるのであり、増殖炉といわれる所以である。
※4 ウラン 238 に中性子が吸収されウラン 239 になり、これがβ崩壊し中性子が1個陽子になり原子番号が一つ増える。周期表には最も寿命の長い
Np 237 が記載されている。
1940 年 6 月パリはドイツ軍に占領され、翌年 12 月日本軍は真珠湾を攻撃した。前述したように原子爆弾開発を進言されたルーズベルト大統領はそれまでわずかな予算しかつけていなかったが、それから 2 年後(1942 年、昭和17年6/17日)ついに「マンハッタン計画」といわれる原爆製造に許可を下した。難問山積の夢の爆弾、だがもしかしてドイツに先を越されたらという懸念がある。それ故の国家レベルでの開発であるが、核分裂が発見されてからわずか 3.5 年、電光石火の早業である。このときはまだウランの濃縮法は案だけ(ガス拡散法、電気磁気法など)であり、プルトニウムの生産にはそのための設備(核分裂連鎖反応持続装置、パイル)が必要だということだけ、臨界質量もまだ分かっていない。
原子爆弾にはウラン 235 とプルトニウム 239 が必要なことが分かった。しかし 1941 年当時まだ連鎖反応持続装置は成功しておらず、臨界質量も曖昧である。しかしわずかな量でないことは確かである。
1942/12/2 シカゴ大学でこの連鎖反応の確認実験が行われた。その実験装置(パイル)は CP-1 と名付けられ、天然ウラン 40 トン、減速材としてグラファイト
385 トンを組み合わせ、中性子発生源を内蔵しさらに制御装置(中性子の吸収が大きく、それでも爆発は起こさないカドミウムの棒)を取り付けたものである。この実験で使用するウラン塊は、実験後にはネプツニウム、プルトニウム、その他の放射性物質の混合物になる。大きな危険を伴う実験であり連鎖の確認ができたとしても、制御ができなくなれば、想定できない被害を生じる。十分な安全対策を講じての実験であるが、この前代未聞の実験は見事に成功し、以後原子爆弾以外に原子力発電(プルトニウム生産を含め)への道を開くことになる。
原子爆弾の材料になるのはウラン(235)とプルトニウム(239)である。しかしウラン(235)は天然ウランの 0.7 % でしかなく、これを濃縮しなければ使えないが、その濃縮方法も確定していない。一方プルトニウム(239)は、前述の方法で天然ウランを利用して製作は可能であるが、これはあくまでも実験装置であり、生産設備ではない。さらに強力な放射性物質を含むウラン塊からプルトニウムだけを分離するのも極めて難しい問題であり、現在でさえも完全な解決には至っていない。
爆弾製造という目的ではウラン(235)かプルトニウム(239)のいずれかが入手できればよい筈である。 優先順位を決めて、目標を一つに絞るというのが常識的であり、経済的手法である。しかし失敗したから次の方法をというのでは、時間がかかりすぎる。急を要する場合はどれだけ費用がかかろうと問題ではない。同時進行させて成功したものを採用する。戦時だから許されるということであろう。そしてウラン(235)の濃縮とプルトニウム(239)の生産が同時進行的に開始され、プルトニウム生産工場が、ワシントン州(ハンフォード)に工場が建設され(1943年)、ここはプルトニウム関連の一大工場地帯となる。
天然ウランからウラン(235)を分離するには、ガス拡散法、電気磁気法、熱拡散法の三つが提案されているが、いずれも気が遠くなるほど難しい方法である。U235 と U238 は同位体であるから化学的手法では分離できず、重量差を利用した物理的方法によるしかない。しかしその重量比は 1:1.013 と極めて近い。前記三つの方法もすべて物理的方法であり、どれかが成功すれば他は不要である。しかしどれが優れているかなど誰にも言えないから三つの方法を同時進行させる。それは最大の無駄と分かっていても戦時中、国レベルで行うことだから時間が最優先である。そしてテネシー州オークリッジにこの三つの方法による広大な工場が別々に建設されたのである。
物の開発において設計が完了し確信を得てから製造に入るというのが常識である。しかしウランやプルトニウムが爆弾の可能性があるとしても、まだ爆弾の具体的設計はできていない。もしこれができなければ、それまでの投資は全くの無駄になり、企業なら倒産確実である。連鎖反応の実験は確かに成功した。しかしそれは減速材(遅速中性子)を使用してのことである。爆弾には減速材は必要とせず、高速の中性子が必要であるが、それに関するデータは皆無であり、さらに臨界質量も推定値であり確定はしていない。さらに爆弾の実験材料としてのウランやプルトニウムさえほとんどできていない。それでも爆弾の開発も同時進行的に行われ、ニューメキシコ州ロス・アラモスに秘密の研究所を設立したのである(1943年)。超一流の科学者(といっても多くは20代後半)を総動員し、建設途中でも研究が始まった。なぜこんなに若い者ばかりかといえば、当時戦争当事国は何時の事か分からない原爆の開発より、直ぐに役立つレーダーの開発に優秀な人材を当てていたことのようである。そして独立に開発していた英国の研究部隊も「マンハッタン計画」に合流することになり、ほとんどの研究員はマンハッタン地区に集まった。
あらゆる既知のデータを駆使して、構想を練り可能な実験を繰り返して設計にこぎ着けた原子爆弾の概要は次のようなものである。臨界状態にある(1kg以上の塊状の)ウランは自然に放置すれは天然に存在する中性子を吸収して爆発してしまう。必要なとき爆発させることができなければ爆弾ではない。故に臨界質量未満のウラン塊を二つ用意しそれをパイプの中に離して設置する。この二つをパイプの中で爆薬を破裂させ瞬間的に合体させる。当然臨界質量を超えるからそのとき、同時に中性子の発生源から中性子を照射するような構造にすれば良いことになる。ガンバレル方式と呼ばれたこの方法はしかし、プルトニウムには適用できないことがわかる。プルトニウムは密度が一定以上だと少量でも自発爆発を起こすのである。工場で生産されるプルトニウムには同位体として必ずプルトニウム 239 以外に 240 がわずか含まれておりこれが自発爆発の原因であるが、これを分離するのはウランの濃縮よりはるかに難しく不可能に近い。プルトニウムを使用するにはどうしてもウランとは別の方式を考えなければならない。それで開発されたのがインプロージョン方式といわれるものである。臨界未満のプルトニウム塊を完全球体とし一個だけ用意する。これを周囲から爆発力で球体を中心に向かって圧縮するのである。この圧縮により体積が縮小し(密度が高くなり)臨界状態になる。中心には圧縮されたときに中性子が発生するように中性子源が仕掛けてある。原理は簡単であるが、製作はガンバレルより何倍も難しい。故に実物の実験が必要になり、1945年7/16 ニューメキシコ州アメリカ空軍基地に近いアラモゴードで「トリニティ」の名で決行された。こうして作られ実験された原爆は同年8/6 「リトルボーイ」と呼ばれたガンバレル方式の原子爆弾が広島に投下され、さらに8/9「ファットマン」と呼ばれたインプロージョン方式の原子爆弾が長崎に投下された。
原爆開発は権力の下、金と頭脳を無制限に投入すれば不可能も可能になるという見本かも知れない。
科学者自身が戦争中に開発は無理と考えていた原子爆弾、それが五里霧中の中で「マンハッタン計画」が施行されてからわずか3年、核分裂の発見から数えてもわずか
11 年、まさに電光石火の早業である。
戦争がなければ「原子爆弾は開発されなかった」とはいえない。時間は多少遅れても国レベルでは必ず実現させたであろう。費用対効果でみれば、絶対に採算のとれない代物であり、企業なら絶対に手を出さない。国家だから威信を誇示するためにのみ行う。しかしそれでもあまりに費用がかかりすぎれば中止か延期ということになる。日本に投下された原爆について、様々な議論がなされ続けているが、「人体実験」であり、「大量虐殺」であることは否定できない。進みすぎた科学技術、それは必ずしもすべてが人類に幸せをもたらすとは言い難い。平和利用をカモフラージュにして理屈をこねてみても、原子破壊から生じる様々な負の遺産にこれからも大きな代償を払うことになるのかも知れない。
2章6節の参考資料:「原子爆弾」 山田克哉著 講談社(ブルーバックス) 他