ものづくり技術手帳

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第一章  心の技術

 第一章 目 次    
1.1  明日は私の風が吹く      1.2 何を考えていますか        1.3 本当はいい子なんだよ  
1.4  心配性                  1.5 万が一                    1.6 まな板の鯉になる  
1.7 病は気から               1.8  あいつだけは許せない     1.9 環境に順応する
1.10 潜在意識                1.11 人を謗そしるは鴨の味     1.12 手口が同じ  
1.13  夢とは何か             1.14 群盲象を撫ず             1.15 一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ
1.16 りてを吹く      1.17 価値観                   1.18  される   
  コーヒータイム1(日本という国)  執筆後記    

1.1  明日は私の風が吹く 

 「明日は明日の風が吹く」という諺は、明日のことを心配しても仕方がない、余りくよくよするなという意味であるが、これ以外にも投げやり的、せつな的又は楽天主義という意味にも解釈できる。しかしもともとこの言葉の起源からすれば※1、これにはもっと前向きの意味がある。つまり今日は苦しくても大切に生きる、明日に希望を託し思い煩わないで生きるということである。さらにつき詰めれば今日一日だけを考えて生きる今日だけならどんなに辛くても絶えられるというものである※2。 昨日や明日の問題にかかわっている暇はなく、今日の仕事は今日中に仕上げるということである。
  しかしながら今日一日だけを考えて、その日にすることとは何であろうか。人の命は一日で終わるわけではない。明日は命がないかもしれないということと、これから何年も続くと考えた場合に今日することは自ずと違ってくる。「今日一日だと思って生きよ」といわれても、ただそれだけでは何とも説得力がない。たしかに取り戻すことのできない過去を引きずって生きるのは無駄なことであり、明日のことを心配する必要もないであろう。だとすれば「今日一日の枠の中で生きよ」ということをどう考えるべきか。そこには明日への希望があることを絶対の前提としてしか考えられない。しかしながらこれとは逆に明日に希望のないような次の言葉もまた好まれているようである。「たとえ明日地球が滅びようとも、私は今日リンゴの木を植える」。
これは1500年頃の宗教改革者マルチン.ルターの言葉とされているが、これもまた解釈に苦しむ言葉である。本当に明日地球が滅びるなら今日植えるリンゴの木に何の意味もないことになる。自分の命だけが失われるのと、全人類が滅亡するのとでは考え方が全く違ってくるであろう※3。別の解釈をするなら、彼は「地球の滅びなど信じていない、そんなことはあり得ない、明日を固く信じているからこそリンゴの木を植えるのだ」となる。天災は起こるかもしれない、それで命がなくなっても、自分の行っている仕事は後世の役に立つと信じればこそ、今の仕事を続けることが出来るのではないかと思う。
今日の仕事は将来の夢を実現するための小さな小さな一歩なのだ。漠然としている夢でよい、実現の可能性はないように見えても良い、それが何時のことか定まらなくても良い。とりあえずは「絵に描いた餅」でよいのであり、夢があるということが大切である。夢や希望を持つと言うことと将来を心配するということとは全く別のことである。「今日一日の枠の中で生きる」ということは明日への思い煩いを捨てる事であり夢を捨てることではない。また「今日一日の枠....。」ということは今あるものに目を向けるということでもある。もしお金さえあればとか、もっと時間があれば、もっと才能があれば等「ないものねだり」をすることではない。世の中には脚のない人、手のない人、目の見えない人などがいる。それでも五体満足の人達と同じか、又はそれ以上の仕事をし幸せな生活を送っている人がいる。今ある物を最大限活用する、それをもって今日一日を夢につなげて大切に生きることである。そのように生きることが自分にも人々にも役に立つ、そしてそれを神が守ってくれる。「明日は明日の風が吹く」は言い換えると、「明日は神が守ってくれる」という意味が込められていると考えよう。多分明日もその次も続いていく命だから、希望がないと、夢がないと生きていけない。
それをもっと明確な言葉で表してみた。それが「明日は私の風が吹く」である。漠然とした明日ではなく自らの意志で明日を作る、そのため今日一日を精一杯生きる。さすれば明日は私に幸せの風が吹く。それはまたすべての人が願う風、必ず吹かせることのできる幸せの風である。

※1  映画「風と共に去りぬ」で、スカーレット・オハラが最後に言うセリフ 「Tomorrow is another day」であり、         「明日に希望を託して」という意味である。
※2「道は開ける」 D.カーネギ−著 秋山 晶 訳 創元社刊 第一章 今日一日の枠の中で生きよ
※3 1938年 アメリカで「宇宙戦争」というラジオドラマが放送された。このとき劇中の「火星人襲来」というニュースを本物と勘違いしてアメリカ中がパニックに陥った事がある。暴動を起こす人、自殺を図る人、安全な場所へ逃げる人気が狂う人等等、こういう場合あなたは落ち着いて日常の仕事をすることが出来るであろうか。

  1.2  何を考えていますか

  子供の頃、サーカスの動物たちが芸をするのを見て、「自分にはとてもできない芸だ、俺はあの動物たちより劣っている」と、真剣に悩んだものである。理屈にもならないことで、ひどく落ち込んでいた。このような劣等感を引きずって成人し、あるとき一冊の本に出会う※1。何回も読み返すのでボロボロになり、買い換えてまたボロボロになり現在3冊目である。これは自己嫌悪に陥っていた私の座右の書となった。この著者もまた「劣等感の持ち主であり、30歳で既に衰弱した老人であった」と述べている。不幸のどん底に陥った人々がこの著者の講演によって立ち直った奇跡的な例が数多く述べられている。人間には誰でも考える力(精神力)が備わっており、その考え方によって不幸になったり、幸福になったりする。人間には神の心が内在しており、考え方をそれに合わせることができる。
だから自分を価値ある人間と認識すべきであり、なぜそのように言えるかということが詳細に述べられている。貴方は「誰か」と問われれば通常は名前を言う。しかし貴方は「何か」と問われたとき、名前でも職業でもない。それは人の精神的な内面を問うものである。その内面とは「貴方の考えていること」そのものである。
人が罪を犯した場合「あいつは 一体、何を考えているのだ」と非難される。また人々の行為が理解できないときも、「彼らは何を考えているのだろう」と言われたりする。まさに次の言葉どおりである。「人が一日中常に考えていることがその人そのものである」(ラルフ・ワルド・エマ−ソン)※2
人間の現在の状態は本人が承知していようといまいと、「その人が考えたことの結果」なのだということである。天災の被害に遭おうと、他人が起こした事故に巻き込まれようと、病気になろうと、あるいは大富豪になろうと、それらは本人がそのように考えたからである。しかしこれは納得のいかないことであろう。人は自分の意思に反して「不可抗力」の災難に遭うことがある。それでも「その人が考えたことの結果である」というのはなぜなのか。
我々は生きている限り災難に遭遇する機会がある。災難に遭うことは5節(万が一)で述べるように極めてまれなことであり、あってはならない事である。しかし、たまたまその場所にいたことは、そこに本人の意志が全くないわけではない。ゆえに本人の考えたことの結果が身に起こる。健康を思えば健康になり、病気を思えば病気になる。成功を思えば成功し、失敗を思えば失敗する。
小さいときから将来への夢を持ち続けそれを実現させた人はたくさんいる。逆に人生はそんなにあまくないと考え続けている人はやはりその通りの人生になる。人間に備わっている考える力(思考)が人間を人間たらしめているのである※3
「考える力」を十分に活用していない人がいる。自分を過小評価し、現状を変えることを拒否し、世の中を否定的に見る。あなたの夢は何かと問われて答えられる人はどれだけいるだろうか。夢や目標のない人は海の上を漂流しているのと同じである。波まかせ、風まかせで自分の意志はどこにもない。いつも社会現象の波に流されて自分の一生は何だったのかと言うことになりかねない。
夢を持つことを「絵に描いた餅」と批判されても良い。期日が定まらなくとも良い。仮に期日を決めてそれまでに実現しなければ、その期日を延ばせばよい。多くの人はそれをせず、目標や夢自体を捨ててしまう。達成するまであせらずゆっくり確実に持ち続ける事である。一足飛びに目標値に達することなどあり得ない。その目標のために今何をすべきかを考え、できることから実行する。行動を起こせば失敗することもある。しかし目標に向かって行動することを繰り返せば失敗は失敗でなくなる。
夢だけは持っているが、何かと口実を設けて何もしない人は本当の夢想家である。
すべては我々の考える事から始まる。巨大なタンカーやジャンボジェットを動かすのも戦争を始めるのもすべては人の思考なのである。人の思考で世の中は動いている。これからもそうである。とすれば
「あなたは今何を考えていますか」。

※1 「精神力-その偉大な力」 ダン・カスター著、大原武夫訳、ダイヤモンド社刊
※2 アメリカ・ボストン生まれ(1882年 、78才で死去) 思想家・哲学者・作家・詩人・エッセイスト。
※3 心の中で考えていることで人間は決まる。思考が人間を形成するのだ。(ジェームズ・アレン)

  1.3  本当はいい子なんだよ

  人は白紙の心を持って生まれてくる。そして教育されるままに何でも吸収し、善悪の判断はできないから、天才にも犯罪者にも育てることができる。「三つ子の魂百まで」という諺がある。自分又は周囲の人が気づいていなくても幼少時の環境は後の人格に大きく影響するということである。しかし教育に遅すぎるということはない。「本当はいい子なんだよ」と校長先生に言われ続けたトットちゃんも「私はいい子なんだ」と思うようになる

※1。(彼女は好奇心がおう盛過ぎて、色々な事件を起こすために普通の学校から、電車を校舎にする小さな私立学校に転校させられる。そこの校長先生は、常識はずれの様々な事件を起こす彼女に周囲からの苦情があっても、彼女を信じ「本当はいい子なんだよ」と言い続けた。この言葉の本当の意味を彼女はずっと後になって知るが、言われた当時は「私はいい子なんだ」と思っていた。それは彼女の人生を左右する重要な言葉であった。)
「本当はいい子なんだよ」という表現は一種の褒め言葉であり、励ましの言葉である。いつもいたずらをしていて褒めるところは何もない。それでも子供の純粋な心を信じる。そうでなければ口にでない言葉である。
 人は変われる、たとえ「落ちこぼれ」となっても善良で優良な社会人になることができる。
例えば「背中に入れ墨をした極道の妻」が弁護士に変身した例がある※2
あるいはまた「ヤクザが牧師」※3 に転向するという奇跡が起きる。いずれも落ちるところまで落ちてしまった人たちの更正の物語である。すさんだ心に働きかけたキッカケがあり、それに本人の意思が応答する。社会に悪がはびこっても性善説とか性悪説とかを凌駕し長い歴史を経て蓄積した人類の知恵が社会全体を善に向かわせる。この世に完全無欠な善人がいないのと同じように極悪人もいない。「悪魔は絵に描かれているほど黒くはない」という諺どおりである。罪の大小に関係なく、すべての人は「本当はいい人」なのである※4
人が育つ環境はその人に大きな影響を与えることは前述した。神童に育つのも罪を犯す子に育つのも家庭や社会、学校などの環境による影響が大きい。そこに年齢は関係なく成長してからでも善にも悪にも染まる。人を褒めるということはその人を認めることである。どんな人でも人から認められることを渇望しているのである。総理大臣であろうと聖職者であろうと地位に関係なく、それに一つの例外もない。あなたは誰からも褒められたことはないですか。それでは自分で自分を褒めてみよう。
 誰も自分を認めないのであれば自分でやるしかない。誰も自分のことを「本当はいい子」と言ってくれないのであれば、自分で自分に言い聞かせることである。「俺は本当はいい人なんだ」と繰り返し繰り返し言うことである。馬鹿馬鹿しいと思うなかれ。他人に言われようと自分で言おうと同じことなのだ(1.10節、潜在意識を参照)。
「自分を褒めたい」といったのは有森裕子※5 だが「褒めたい」ではなく褒めていいと思う。心からの賞賛の言葉は人の一生を左右するほど強烈である。それをお世辞とかおだてなどと混同してはいけない。お世辞には嘘がある。「おだてりゃ豚も木に登る」ことはあってもそれは長続きしない。褒められる対象は真実でなければならない。「私は強い」「私は偉大だ」など、自分がこうありたいと思う言葉を繰り返すのである。ただし怠惰な生活を続けていながら自分を褒めても、自分に嘘をついていることになる。人との比較ではなく昨日の自分と比較して少しでも良くなったことを認めるのである。一日過ぎればわずかでも前に進んでいる、それは決して不可能なことではない。毎日少しずつでも変わっていく自分に気がつくであろう。
すべての人が「本当はいい子なんだよ」。

※1「窓際のトットちゃん」 黒柳徹子著 講談社刊
※2「だからあなたも生き抜いて」 大平光代著 講談社刊
※3「愛されて、許されて」 鈴木啓之著 雷韻出版
※4 もちろん数は極端に少ないけれど、例外はある。そういう人達には当然、法の裁きが待っている。
※5 平成八年のアトランタ五輪女子マラソンで、銅メダルに輝いた有森裕子選手が、レース後のインタビューに「自分で自分を褒めたい」と答え、流行語になった。

  1.4 心配性(やめられない人へ)

 心配したことがないという人がいるであろうか。多くの人は今現在も何かを心配しているのである。心配事とは未来の出来事、まだ起きていない事柄について勝手に悪くなると想像して悩むことである。これを取り越し苦労という。それが取り越し苦労だと分かっていても、それをやめられないことに又悩む人がいる。しかしながら心配したことは何も起こらず、たとえ起こったとしても何とか乗り越えてきた、というのが多くの人の経験で証明されている。あなた自身についても、もし心配事があるならそれをすべて紙に書き出し、一定期間保存して置くことをすすめる。後でその心配事が起こったかどうかを振り返ってみると、殆ど起こらず、まさに取り越し苦労であったことを知るであろう。実際に書いてみると、心配したことが馬鹿ばかしくなってくる。この心配事や悩みは人生を破壊するほど強力な影響を及ぼすものだということを知るべきである。
病気の過半数は取り越し苦労が原因とされており、これは絶対にやめなければいけないことである。この心配するということのメカニズムを考えてみよう。心配は人の思考力と密接に結びついており、人が何かに熱中しているとき以外はいつも何かを考えている。したがって人は忙しくしていれば心配はしなくて済むのであるが、四六時中忙しいわけではない。そのすきまに思考力が働いて余計なことを考えてしまう。常に暇な人はなおさらである※1。人の思考力は本来すばらしいものであるが、それを後ろ向きにすると心配性になる。
 この能力を前向きにすれば、これは創造力につながり、幸福の種となる。物事を常に積極的姿勢で考えること、つまり良いことが起きると思うこと、物事の良い面に目を向けること、ないものにではなく今あるものに注目すること等、常にプラス思考の習慣をつけることである。そのためには「あらゆる問題には解決策がある」※2 という事に信念を持つことである。自分で解決できなければ相談すべき相手を探すことである。さらに「この世のシステムすべては全体が協調して、善に向かって働く」という事に信念を持つことである※3。つまり全宇宙にあまねく満ちている神の知恵が働いて、人が願ったことは実現すると信じることである。「俺は無神論者だからそんなこと信じられるか」と言う人がいるかもしれない。
しかしそんな人でも、どうにもならない苦境に陥ったとき、自分では意識せずに、神に頼ってしまうのである。また、神など無用と思われるような気丈な人でも、人知れず、神に祈りを捧げていることを知るべきである※4。ならばとことん困窮したときでなくても平常時にも信仰心を持つべきではないだろうか※5。必ずしも特定の宗教に属さなくても良い。
大自然の神秘な力が私たちを支配しているのである。それを拒否するしないに関係なく、すべての人に及んでいるのである。神社や寺や教会など特定の場所に存在しているのではない。あまねく宇宙に遍在している神(全能者、絶対者、創造者)なのである。だからそれにどんな名をつけようと自由である。好きな名前をつければよい、我々一人一人の神なのだ。「無神論者」がどんなに頑張っても、全能の創造者がいないということを科学的に証明できないのである。科学に造詣が深くなればなるほど、その人たちは神の存在を認めざるを得なくなるのである。心配性の人は心配しない人(いわゆる楽天家)を心配しないゆえに「よく心配しないでいられるものだ、ノー天気!」といって非難したりする。取り越し苦労によって、問題が解決したためしがない。それはすべてを崩壊させ自殺的でさえある。それでも人はそれをやめない。
なぜか。「信仰が足りないから」といってしまえば簡単だが、それでは解決にならない。次の数節で具体的に心配を少なくする方法を述べてみる。

※1 「小人閑居して不善をなす」
※2 「道は開ける」 D.カーネギー著 香山 晶訳 創元社刊
※3 「貴方の目的や夢が今実現している。そういう信念を把握していることが大切である。たとえその信念が       感情とか常識の世界でなんら保証し得ないものであっても。」デーヴィス
※4 「浅はかな哲学は人の心を無神論に傾け、深淵な哲学は人の心を宗教へ導く」フランシス・ベーコン
※5「信仰は人間が生きる拠り所とする力の一つだ。それが皆無になれば破壊を意味する。」ウィリアム・ジェームス

  1.5  万が一(心配性への処方箋)

 万が一とは1万に対して1(0.01%)という起こりそうもないことをいう言葉である。この数値を境にして物事に遭遇する頻度を考え、心配する、しないの判断をすることができる。例えば、年ごろの娘が帰宅時間になっても会社から帰ってこない。親が心配して玄関をでたり入ったりする。よくある風景であるが、その心配とは何であろう。交通事故(車、電車、バス、歩行中等の事故)、娘自身の異変、さらに雨天なら雷等キリがないほど心配の種は出てくるものである。しかしここで先ほどの万が一を考えよう。右の表には人が死亡する場合の危険度合いを示してある※1。すべてを含めた交通事故による死亡の確率は 1 万人に 0.6 人であり、万が一より少ない。そしてこの中には駅ホームからの転落事故や、車に乗車している人自身の死亡などが含まれる。会社から家までたどり着く間に、娘には起こり得ないことを除外するとはるかに少ない率となり心配の種は何もないのである※2。(また不測の事態というのはさらに少ない。ちなみに雷に打たれて死ぬ人は、年間20人程度であり、1万人に0.0017人の割合である。)状況を把握し、それが起きる確率を考えると、事故の心配をするのは全く馬鹿げたことになる。テレビ、新聞などのニュースでは、何処にでも危険が存在しているような報道が盛んに行われ人々の不安をあおる。「日本の安全神話は崩壊した」などと、まことしやかに言う。しかしニュースになるということは極めてまれな事件だからである。危険だというニュースの報道は自分やその周囲には起こらないと思うべきである。日本では年間3万人程度が自殺する。これは1万人に対して2.4人となるが、この数十年私の周囲で自殺者の話は聞いたことがない。非常に多いと思われている自動車事故※3 による死亡者は1万人に対して0.13人程度である。逆に歩行者の方は0.19人となり若干多くなる。日本では毎年、約100万人が死亡しているが、そのうち約90万人は病死である。報道では殺人事件が多発しているように言うけれど、この表の他殺の項をみると万が一よりはるかに小さな数値(0.04人)である。ただし不慮の事故は3.0人と万が一より多い。しかしそれぞれの事故の内訳に限れば万が一より小さくなり心配とは無縁になる。ただし表中のデータはあくまで平均値である。明らかに危険とされていることを、行ったり危険な場所に行くことはやらないこと、「君子危うきに近寄らず」であり、用心するに越したことはない。飲酒運転や携帯電話のながら運転などもってのほかである。車を運転する人達だけに限定すれば危険の確率値は大きく跳ね上がる。登山客だけの遭難の確率、海水浴客だけの水死の確率など当然大きくなる。この統計には傷害については触れていないが、健康な人が突発事故で死ぬなどと言う確率は極めて小さいのである。まずは心配する前に状況を把握することである。 心配は判断の根拠となる知識が十分でないのに、判断を下そうとする故に生ずるのである。そんな判断は当然誤りである。娘の帰宅経路がどんな状況か、それがどれほどの危険率かを知ればおのずと心配はなくなる筈である。心配事は想像の産物であり、事実ではない。
めったに起こり得ないことを起こるかもしれないという妄想であり、それは精神(心)の間違った使い方である。もう一度いう。まずはひたすら状況を把握することである。それがわかれば心配は自然に解消してしまうであろう。

※1 2009年の日本の人口は1億2千7百51万人、各データ値にこの値を掛けると全体の数字となる。
※2 傷害の場合を含めると多くなるが、ここでは触れないことにする。
※3 車の事故は交通事故死(航空、海運、列車、車)の中の一部である。
死亡統計をさらに詳しく知る死亡原因・命の危険度

  1.6  まな板の鯉になる(心配性への処方箋U)

  人は必ず死ぬ、いずれは病気にもなり、事故に会うこともある。それらはどうにもならないことである。日常の不満、自分自身についての不満、背丈が低い、ブス、頭が悪い等々の不満もまたどうにもならないことである。このどうにもならないことをどうにかできると思うが故に人々の悩みは絶えることがない。不可抗力を可能ならしめようと思うからストレスが高じて病気になる。「まな板の鯉」という諺がある。これは絶体絶命の窮地に追い込まれ相手のなすがまま、どうにもしようがなく死を覚悟するしかないことの喩えである。しかしここで別の解釈をしてみょう。我々は日本人であることを変えることはできない、親を選ぶことができない、生まれた環境を変えることはできない。我々は生まれたときから、人類社会のシステムというまな板の上に乗っているのである。人が生きていく上で、誰もが苦難にぶつかるものであり、そこに例外はない。
 人はいずれ死ぬ※1、それは他人にどうこうされるのでなく天命なのだ。我々が生きている世界、家庭、学校、会社等の生活環境(システム)の現状がまな板とすれば、それが不満であってもそのまま受け入れなければならない。そこに苦難が待ち受けていようとそこから逃げてはいけない。そこから逃げてもまた別のまな板に乗せられる。どこに逃げても苦難はついて回る※2。ならばその苦難に立ち向かうことである。それは何もジタバタすることではない。鯉は川魚の王様である。どんなことがあろうと泰然自若としていなければならない。そこで現実の苦難への対処法を考え、勇気を持って対決することである。苦しくてもつらくても、現実から逃げず、問題を解決すれば、まな板が安住の地となる。
人事を尽くして天命を待つという心境になることである。「まな板の鯉になる」ということは、どうにもならないことは、覚悟してそのまま受け入れることである。しかしこれから先に予想されることはまだ起きていないことである。それは変え得ることが可能なことと不可能なこととがあるが、それに対する心構えが大切である。例えば、
1. 仕事のミスが発覚すれば会社を首にされる
2. 手形が不渡りになることが避けられない
3. 末期ガンであと数ヶ月の命と宣告される
等々我々には歓迎すべからざる事態が待ち受けている。我々はこのような場合、それらに怯えて、心配や苦悩で、食事もできず、睡眠不足で悪夢にうなされるという状態になる。そうならないために、まずここで起こり得る「最悪の事態」を予測することである。そしてそれを受け入れ「まな板の鯉」になることを覚悟することである。じたばたせず、この最悪の事態を少しでも良くする方法を真剣に考え実行することである。
  1. 会社を首になる。それがどうした。そのときは新しい仕事を探せばよい。首を覚悟すれば、
     ミスの弁解も堂々とできる、もしかして首はつながるかもしれない。
  2.手形の不渡り。たんに会社がつぶれるだけではないか、それで刑務所に行くことにはならない。
     開き直れば勇気がでる、真摯(しんし)に行動すれば再起のチャンスだってある。
  3. 末期のガンだと!
     そのように宣告されても快癒した人がいる。ガンの原因は心配や様々なストレスである。
  それまでの思いを吹っ切り、死を覚悟し残りの人生を有意義に過ごそうと行動を起こした人々が、ガンを消滅させてしまうのだ。我々は突発事故は避けられない、万が一以下であっても事例がある以上誰かが災難を受ける。それが天災であろうと人災であろうと、不幸にもそういう事態に遭遇したらじたばたせず、起きた事態を素直に受け入れることである。乱暴な料理人が少し早く来ただけなのだ。自分の意思の力でどうにもならないことは、悩んだりしないことである。このように「万事休す」ということもあるが、こういう事態は極々まれなことと知るべし、「あらゆる問題には解決策がある」のである。どうにもならないことは受け入れ、どうにかなることなら変える努力をする。それが幸福へのただ一つの道である。諦めなければならないこととそうでないこととの見極めが大切である。

※1 不老長寿、又は永遠の命を求めてどれほど多くの人が無駄な努力をしてきたことか。そういう人がいまだにいる。どうにもならないことにこだわり、結局一生を棒に振ることになる。
※2 地震が怖くても逃げることはできない、犯罪のないところなどない、楽な仕事というものはない。

  1.7  病は気から

  かって病気などしたことのない私は身体の調子が悪いと訴える人に「病は気から、心が病んでいるからだ、クヨクヨ悩むな」などといって、周囲から煙たがられていた。その私が大腸癌になり、肝臓に転移するなどして4回も手術を受けた。それからは同じ事をいっても相手にされない。「ガンを患った人にいわれたくない」ということであろう。
しかし、私がガンになるとは納得のいかないことである。以前からガンになる人々には性格的共通性があると知っていたからである。それは一口で言えば「人生に対する絶望感」である。世のすべてを否定的に見る、自分の存在価値を見いださない、環境の変化に対応できない、感情を抑制できず対人関係につまづき社会的に孤立するなどの人々である※1
すべてを悲観的に見る人であり、それらの性格はまた強いストレスを生み出す。私は自分を楽天家だと思っており、これらはいずれもあてはまらない筈であった。強いて原因を探せば、自分では気のつかないストレスや、運動不足くらいしか考えられない。しかしガンになるのは、それまでの生活習慣が間違っているから変更せよとのサインであるらしい。「なぜ自分がガンになるのか」という考えを持つこと自体問題なのであり、この考えを捨てない限り再発の可能性さえあるという。
今はすなおにそのサインを受け入れ、推奨される生活習慣を実践しているつもりである。病院を訪れる人の 70 % は、不安や悩みが原因の病気であり、それを取り除けば回復するということである。そしてすべての患者は次の三つのタイプに分類されるという※2
1. 死を望んでいる患者(15〜20 %)
 病気を歓迎している。医者はどんな処置を施して も治らない。こういう患者は病んだ心を治す方が先である。
2. 素直な患者(60〜70 %)
   医者の言うことを良く聞く。病気は医者が治すも のと考えている。医者を喜ばせる演技さえする。
3. 扱いにくい患者(15〜20 %)
   医者の言うことを聞かない。治療の内容をしつこく聞く。病気は自分が治すという姿勢。自分の病気を調べその専門家になる。
 病気が回復する可能性の高いのは 3. ということである。彼らは検査結果を詳しく知りたがる。自分の病気の情報を知り、それに立ち向かう。無力感や絶望感はなく、先のことをクヨクヨしない。医者からみて扱いにくい患者はすべてにプラス思考なのである。「百才まで生きたいか」という問いに即座に「ハイ」と答える。「健康であれば....」などといわない。そんな保証はないことを知っており、病気に挑戦する勇気を持っているのである。ちなみに医者への同じ質問では「ハイ」と答えるのはわずか5%だそうである。手術の前にはインフォームドコンセント※3 なるものが行われる。そこで医者は言う、この場合の5年生存率は○○%であると。その%の低さに驚きショックを受け、思わず聞き返した。その%以外は5年以内に死ぬと言うのである。こういうデータは古いし、信用しない方がよい。しかし担当医から目の前で確信ありげに言われると動揺する。とにかく落ち込むこと甚だしい。そのほか滅多に起こり得ない危険性(いわゆる合併症)をすべて知らされるとますます落胆する。「大丈夫、心配ない」と自信をもって言ってほしかった。心と体が密接に関係しているのであれば、これは重要なことと思われる。とはいっても、自分の身体に関することである。もし病気になったら医者まかせにせず、できるだけ自分で情報を集め、自分の病気は自分で治すという気構えが必要である。医者にとって扱いにくい患者になろう。人には免疫力という自然治癒力が備わっており、それが低下するから病気になるのである。その免疫力を低下させているのはマイナス思考である。それをプラス思考に変えることで、病気にならず、またなっても回復は早い。
私は心ならずもガンになってしまった。それでも懲りずに「病は気から」ということをかたくなに信じている。ガンは「病気じゃない」と考えたりして、多分これからも信じ続けるであろう。
「病は気から」なのだ !!

※1 「ガンの感情コントロール療法」ローレンス・ルシャン著 田多井吉之介訳 プレジデント社刊
※2 「奇跡的治癒とは何か」 バーニー・シーゲル著 石井清子訳 日本教文社刊
※3 これは担当医師が治療を受ける患者に対して、その内容を詳しく文書を用いて説明し、そのメリットとリスクを十分に理解し納得させた上で、患者の自由意志により、治療に同意を得ることである

  1.8  あいつだけは許せない(水に流す)

   歴史上人間同士の殺戮は枚挙にいとまがない。恨みによる犯罪も後を絶たない。相手を許せば済むことであり何も問題は起こらない、と簡単に割り切れないところが人間の人間たるゆえんなのであろうか。「敵を愛しなさい」という言葉につまずいてバプテスマをためらっていた人が、「そんなことが簡単にできるならキリストはいらない」といわれてクリスチャンになった。頭では理解できても素直に実行できないのが普通であろう。それでも良い、しかしその努力はすべきである。「絶対に許さない」という感情は怒りになる。自分では許しているつもりでも許したことになっていない事もある。それは心配の恐れと同じように大きなストレスとなり様々な病気の原因となる。
 自分を許せない人 自分の身体的な特徴を人と比較して惨めになる。自分の性格を嫌いになり自分を責め続ける人。私は駄目な人間だ、私は役に立たないなどと思い悩む人である。またずっと以前の出来事を自分のせいだと思い悩む。何も過ちを犯したわけでない。過去の失敗をいつまでも心にとどめている人である。他人や神を許せない人 あいつだけは決して許さないという人がいる。あいつのおかげで自分はこんなひどいめに合わされた。法的裁きを受けた人にさえ、個人的恨みを捨てきれない人である。また神がいるならなぜこんな不公平なことを、また何で私だけがこんな目に遭うという人である。愛する人や友人失うことなど、自分の身に降りかかる世の中の悪をすべて他人に責任を負わせる人である。
体制を許せない人 自分の不幸の原因はすべて自分以外のシステムのせいにし、自分は絶対悪くないと思っている人である。この不景気は政府の対策が間違っているからだ、給料が低いのは会社が悪い、成績が悪いのは先生の教え方が悪いなど自分の欠点は棚に上げてしまう人である。
しかしたとえ「許せない」ことがあっても、理由のいかんを問わずそれらは許されるべきである。
ただし許すと言うことと認めるということとは全く違う。今後も「許せない悪」が続いて良いと言うことでは決してない。この許すと言うことは相手のためではなく、自分自身のためである。重い荷物をいつまでも背負い続ければ心も体も疲弊する。その重荷を下ろすことがすなわち許す事なのだ。そして許すと言うことは中途半端ではいけない。自分では許したと思っていても心の奥底にわだかまりがある。それをきれいさっぱりとするには行動で示すことである。
あなたが許せない事とは何であろう。それでは許せない事柄をすべて紙に書いて、おもちゃの小舟に乗せて川に流そう。それが具体的行動である。そんな子供だましをと思う人は、その情景だけでも鮮明に想像することである。「これだけは絶対許せない」ということもある。それでも「水に流す」のである。「許しているけど決して忘れない」というのも「水に流した」ことにはならない。許せないことをする人々とは、イエスが言ったように、「なすべきことを知らなかった」、つまり何が正しいかを理解していないゆえだと考えよう。あなた自身「何が正しいかを知らなかった」ゆえに自分では正しいと思って行動したことはないであろうか。世の中に許せないことはないのである。それは「水に流す」ことの大きな助けになる。
「目には目を」という言葉がある。イエスはこれを否定し「右の頬を打つものには左の頬を向けよ」といわれた(マタイ5章39)。しかしイエス自身でさえ、そういう場面に遭遇しても左の頬を向けることはせず「なぜ私を打つのか」といった(ヨハネ18章23)。ことほどさように「言うは安く. . . 」なのである。「水に流せ」と言う私自身、実行できる自信は全くない。しかしその努力はしたいと思っている。「自分ができないことを人に言うな」といわれれば話は終わりである。人間はすべて不完全なのであり、完全な人格者はいないから自分のことは棚に上げるしかない。それは聖職者も同じである。不完全な人間でも正しいことは正しいこととして誰かが言わなければならない。他人から苦しめられてさらに自分を自分で苦しめるのは割に合わない。「ならぬ堪忍するが堪忍」ということもある。それは相手のためでなく、正真正銘自分のためである。「水に流す」ことはすなわち自分自身の心の健康を保つために行うことであり、決して相手のことではないことを認識しよう。

   1.9  環境に順応する

  ストレスとは物理学では応力※1の意味である。これが転じて「人が受ける様々な肉体的、精神的刺激」とでもいう意味となった。ストレスには良い刺激と悪い刺激があり、それは受ける側の感じ方による。しかし一般的に良いストレスとは自分を奮い立たせ勇気や元気を与えてくれるもの、例えば目標、夢、好きなスポーツ、良好な人間関係等である。
 悪いストレスとは過労、不安、悪い人間関係、悪い生活環境などである。これらと関係なく適度なストレスは必要なのであり、ストレスが全くないと人は成長しないと思われる。温室で育つ植物のように身体の調節機能が低下し、心と身体のバランスが取れなくなるのである。しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、過剰なストレスは自律神経を破壊し万病のもとになる。人の性格が多様であるように刺激に対する反応の仕方も多様である。同じ環境にいてもストレスを強く感じる人、つまり性格的にストレスを受けやすい人がいる。
  例えば、まじめで凡帳面、頑固で厳格、内向的、取り越し苦労が多い人達等である。そして一般にストレスの対処法として、十分な睡眠をとるとか、入浴、食事、運動などが勧められている。しかしこれでは一時的であり根本的解決にはならないであろう。ストレスを受けやすい人は、その根本的人生観や価値観を変えることである。それにより多くのストレスもストレスと感じなくなるであろう。なぜこんなに完全主義者なのか、なんでこんなにガチガチでクソ真面目なのか、なぜ人の失敗を許せないのか、なぜこんなにセカセカしているのか等を反省し、もっと気楽に自分の好きなように人生を生きることである。楽天的な人は余りストレスを感じない。今の生き方を変えてみよう、考え方や生活態度を変えてみよう。周りの環境を変えるのは難しい。人の性格を変えるのはなおさらである。であれば自分が変わるしかない。「水は方円の器に従う」という諺がある。水はどんな器に入れてもそれに従うが水の本質は変わることがない。ここで水は人間の意識であり、器は生活環境である。こような柔軟性をもちかつ自分の本質は守るということがストレス解消法となる。また我々が日常受けているストレスはそれほど強烈なものではない。実にさ細な事柄が多いのであり、命に関(かか)わるようなものでは決してない。すべては受ける側の考え方なのだ。もし絶えられないと感じたら、次の生死の間をさまよった人の言葉を思い出そう。
「人間ってなかなか死なないもんだ」※2
(2001年7月20日に長崎の港から釣りに出た武智氏はエンジン不調で不本意ながら漂流してしまう。携帯電話も圏外となり、台風に遭遇するなどして37日後にようやく奇跡的に救助された)。
  この食料も水もなく命が保証されない緊急事態に比べれば、我々が日常経験しているストレスなどは全くとるに足らないことである。海に慣れていたとはいえ、舟での孤独で長い海上生活を彼は経験したことがない。それでも生還できたのは、その環境に順応したからである。陸上の生活とは雲泥の差であり、生活のすべてを新しい環境に合わせたことである。我々も様々な環境に順応することを学ぶべきである。仕事がつらい、気に入らない上司、それがどうしたというのだ。もし事故に遭って、失明したり車いすの生活を余儀なくされたとする。不幸な目にあったと嘆いているだけでは本当にそうなる。周りの環境は何も変わっていない。変わったのは自分ならば、自分を環境に適合するようにしなければならない。この逆境をバネにして以前より以上に有益な人生を送った人々がいる。
ストレスを解消する別の方法は笑うことである。笑うような状況でなくても無理して笑う。
「笑う門には福来たる」である。笑えといっても笑えるわけでないから、大声で笑い声を発するおもちゃでも買ってきて一緒に笑う。しかし「イッヒヒヒ」というのはネクラ的だ。「ウッフフフ」は独りよがり的、「ヘッヘヘヘ」はエッチな親父みたいだ、「オッホホホホ」はちょっといいふりこきである。どうせ笑うならもっと豪快に行こう。
「ワッハッハッハッハ」。これでストレスなんかへっちゃらだ。矢でも鉄砲でも持ってこい。

※1 単位面積当たりの力で表す(パスカル、Pa)。圧力も同じ表現をするが、応力は固体に、圧力は気体や液体に使われるのが一般的である。
※2「あきらめたから生きられた」 武智三繁著、小学館刊

   1.10  潜在意識

「良いことを思えば良いことが起こる、悪いことを思えば悪いことが起こる」。
これはジョセフ・マーフィー※1 が潜在意識について語るとき必ず出てくる言葉である。これが事実であるとしても実行するのは至難の業である。悪いことを思っても悪いことは起こらず、良いことを思っても良いことは起こらないことは日常多く経験していることである。ではマーフィーの言葉は嘘なのか。私はこの言葉を次のように変えてみたい。「良いことを思い続ければ良いことが起こる。悪いことを思い続ければ悪いことが起こる」。思い続けるということは顕在意識の働きである。その継続により潜在意識にまで深く刻印されたとき初めて事は起こる。
  類書には潜在意識と無意識を混同して述べているものが多いけれど、これは明確に区別すべきものであろう。無意識とは人の生命を維持するために働く身体の各機能である。心臓の鼓動や呼吸などは生まれたときからの身体の機能である。それを意識して動かすことはないから無意識である。しかし潜在意識とは意識(顕在意識)で培った考えや習慣が無意識的に表現されるものである。例えば、車の運転中に危険を感じれば無意識にブレーキを踏む。これは練習で培ったものである。演奏家もスポーツ選手も絶え間ない練習の結果、無意識に身体や手足が動くようになる。人が何か無経験のことを始めるとき、例えば楽器の練習などは必ず意識してやる。その意識は理想を描いているのでありそれに近づけようと何回も何回も繰り返す。そして記憶の水路(潜在意識)に刻み込まれたとき初めて無意識的に行うことができる。人は意識して物事をしているときは他のことを考える余裕がないし、決してスムースにはいかない。車の運転を始めたときのことを考えてみるとよい。習い始めのときは、手に汗をかきガチガチになって前方を見ていたはずである。それが慣れてくると、鼻歌を歌い、携帯電話などをかけたりする。運転のほとんどは潜在意識が無意識的にやってくれるから、顕在意識に余裕ができるのである。
またピアノを演奏するときに次はどの鍵盤をたたくかなどと考えていたのでは音楽ではない。このように我々の日常の行動は、ほとんどが無意識的行動である。意識して行動する、つまり考えて行動する時間は極めて少ないのである。これは何も身体的なものだけではなく、精神的なものでも思い続けることで潜在意識に移る。長い継続が必要であり、わずかな時間では効果がない。だから悪いことを思ってもそれが起こらないのは、思い続けていないからである。良いことを思う場合も同じである。トラウマ(心的外傷)もまた記憶に深く刻まれた潜在意識の働きである。衝撃的事件の影響が大きければ一回でも潜在意識にインプットされる。天災による被害、人々の暴力、車や機械類による事故などで後々の影響が現れる。このような状況以外にも人々の心に影響を与えることがある。
例えば豚肉を決して食べない人がいる。子供の頃に屠殺された豚の頭を目撃し、この衝撃的出来事がその人を一生豚肉から遠ざける結果となった。卵を決して食べない人がいる。修学旅行でゆで卵を持参したが、食べ残した卵が腐敗しその強烈な悪臭が、その人を生涯、卵から遠ざけた。これらは身体的影響を受けた例である。トラウマは好ましいことではないが、他動的な衝撃的事件がすべて悪い影響を与えるだけではない。幼少時に受けた好ましい影響が、人々をスポーツマンにしたり、芸術家にしたり、優秀な学者にしたりする。また幼少時に自らの意志で将来何々になりたいと大きな希望をもって努力を続け、それぞれのプロとして活躍している人は多い。
精神的か身体的か、又は幸不幸の事件であれ、それらはいずれも人の記憶(潜在意識)に刻み込まれる。それは大きな記憶の水路となり、生涯消し去ることのできないほどになる。もし間違った水路なら、精神治療を必要としかねない。潜在意識それ自体はその内容の善悪を判断しない。無制限に何でも受け入れ、無意識的に行動に反映する。人間の日常の行動は無意識的行動が大半と知るべし。だからその行動の元になっている記憶の水路を顕在意識で正しいもので注入できるように心がけて置かなければならない。そういう習慣を養うことである。

※1 神学、法学などの学位をもつ世界的に知られている牧師。「眠りながら成功する」「眠りながら巨富を得る」「人生に軌跡を起こす」など多数の著書がある。いずれも産業能率短期大学出版部刊。

   1.11  人を謗るは鴨の味

「あなたは大臣の資格がないから即やめたらどうですか」。これは国会でなされた野党議員の言葉である。また「未納三兄弟」と相手を声高に非難した議員は自分の未納が発覚し要職を辞任することになった。相手を謗る(非難している)ときは極めて気分が良いから「鴨の味」なのである。
「謗(そし)る」の意味は悪口を言ったりけなしたりすることである。同じような意味で「非難する」という言葉は、人の欠点や過失などを責めとがめることを言う。また「批判する」という言葉は人物や行為、判断、学説、作品などの価値、能力、正当性などを検討し評価することとなっている。このように批判と非難は意味が違うのであるが、する方もされる方も混同していることが多いようである。「criticize」の語に「批判、非難する」の両方の訳があてられていることからも分かる。
一方「非難する」を明確に表す英語には blame がある。人を非難することは「鴨の味」だとしても、される方はたまらない。
間違いをした人は本人が一番落ち込んでいるのであり、それを非難することは、怪我した人の傷口をつついて「どうだ痛いだろう」と言っているのと同じである。「あの言葉がグサッと私の胸に突き刺さった」という表現があるように「言葉は剣より強い」のである。非難は一種の攻撃であり、言葉や態度による暴力となる。そこには相手を貶めて自分を優位にする悪意がある。本人にとっては傷口をつつかれる以上のダメージを受けることを知るべきである。誰も他者を非難する資格がある人はいないのである※1
そして前述したように批判という言葉は誤解を受けやすい。それで次のような見解はどうであろう。
江戸期の著書「葉隠」※2の中に「批判は下位者の上位者に対する行為」と記されている。批判は常に下位者が上位者に対して行うのであり、批判する者は批判することで、自らを無意識のうちに相手と同等、あるいは下位におとしめている。即ち、批判された人は、批判されることによりその時すでに批判した人より上位になるというのである。これが正しいか否かは別にして納得しやすい見識である。そしてこのような考えに立てば批判されることを何ら恐れることはない。また批判する場合は自ら下位になることを認めることである。故に部長が部下を、先生が生徒を、親が子を批判するという表現はふさわしくない。それは叱責であり、意見や忠告である。これにより非難と批判の違いがはっきりしてくるであろう。批判とは誤りや間違いの指摘であるのに対し、非難とは相手の欠点や過失を責めることである。非難は揶揄、悪口や叱責であり、批判は評価である。非難は後ろ向きであるが批判には、正しいか否かは別にして多少とも前向きの姿勢がある。
良く言われる言葉「人を批判してはいけない」は「人を非難してはいけない」と言うべきであろう。といって批判が横行してもあまり心地よいものではないが、しかし時には批判もしなければならない。多様な人間の織りなす社会、そのすべてを無批判に受け入れるとすれば、そのことこそ問題である。
古い諺であるが「尽く書を信ずれば書無きに如かず」という格言は、書を情報に置き換えれば現代にぴったりである。あらゆる「情報」はすべからく批判力を働かせて取捨選択しなければならないということである。宗教が、イデオロギーが、思想や信条が、社会的立場が、人種が、国が、職業や職場がそれぞれ異なり、これだけで意見が対立する要素がある。所詮、世の中に批判など無くすることは不可能である。自分は批判などしたことはないと言える人はいないであろう。批判は口だけでなく行為をしないということでも表現できるからである。「行為する者にとって、行為せざる者は最も過酷な批判者である」という言葉もある。例えば選挙の場合、投票しなかった候補者に対しては批判したことになる。批判票などという言葉があるからだ。「未納三兄弟」は批判ではなく非難であり、ひやかしである。批判が批判にとどまっているうちはまだよい。それが非難になり悪口になり揶揄(やゆ)し、謗る(そしる)ことに発展しやすい。批判を「鴨の味」にふくらませてはならない。人が人を非難する原因は、優越感、ねたみ、価値観の違い、無知によるなど種々あるが、それは「けが人の傷口をつついている」ことと同じだということを認識しよう。

※1 「あなた方のうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」ヨハネ8章7節
※2 これは佐賀鍋島藩士、山本常朝の談話を整理し、全11冊にまとめた書物で、完成は(1716)頃とされている。

   1.12 手口が同じ

  犯罪の手口が同じであれば同一犯と見なされる。別の手口でやれば検挙される率は少なくなると思うのだがなぜか同じ手口を繰り返す。かって会社ぐるみで詐欺的な仕事をしていた社員は、解散して新しく仕事を始めてもやはり似たような詐欺まがいの仕事を起こすのである。罪を犯しても更生できない人がおり、特に性的犯罪者も同じ事を繰り返す。
 人は本来変化を好まず保守的である。我々の日常生活もまた同じ行動の繰り返しである。例えば床屋はいつも同じ、髪型も同じ。買い物も同じ店、テレビの番組も何時も同じ。コーヒーもビールも酒もお茶もお米も何時も同じ銘柄で金輪際変えたことがない。「いつものあれ」なのであり、「おれはこれしか食べない、飲まない」と粋がっている。毎日会社と自宅を往復するだけで近隣の事をまるで知らなかったりする。このような保守的習慣が問題というのではなく、それが温存され好ましくない方向に進んでしまう傾向にあることである。
 よくイギリス人は保守的だとか言われたりするが、人種によらず世界中すべての人が保守的であり、これは人間生来の性質と思われる。そして保守的習慣は社会環境や家庭環境、教育によっても醸成され、また自らの意志によっても作り出される。そして悪い習慣は身に付きやすい。性犯罪者が逮捕されて、家宅捜査をされたとき、必ずそこにポルノビデオやビニ本などが大量に発見される。最初の興味を助長させ、のめり込みその結果の犯罪である。
「はじめは人が習慣を作り、それから習慣が人を作る」ドライデン(イギリスの詩人)と言われるように、はじめは意識して物事を始める。それがだんだん慣れてきて習慣になり、疑問を持つことなく続けることになる。良くても悪くてもこの習慣は本人が気づかないほどに大きな力を発揮する。「良き習慣は人格の土台を作る」※1のである。よい習慣を身につけるには、勇気がいる。嫌いな食べ物を好きになるときのような努力がいる。それは自分のためだということ、そして何のために行うかというはっきりした目標が必要である。それをはっきり見定め、まず一歩を踏み出すことである。その目標が何ら実現する保証もなく確信がなくてもよい。到底実現しそうもない目標でも、ほんとに小さな一歩を踏み出して成功した人がいる。
 以前は社長であったが心ならずもホームレスになってしまった堀之内九一郎氏は、年商100億のリサイクルショップの社長に返り咲いた※2。彼曰く「プールの水を一個のおちょこで汲み出す行為ができる人になれ」と。常識的には全く馬鹿げたことであり、それは永遠に終わらないと思う。だがプールを空にするという目標は明確であり、そこに行く道筋が遥かに遠いということだけである。だが今できることはおちょこを使うこと、それしかできない。何時到達するかは不明だが、一歩踏み出していることは確実である。信念をもって行動しているうちに、おちょこがコップになり、バケツになり、ついにはモーター付きのポンプになる。我々はたった一本のマッチが大きな山火事になることを知っている。
それを自然にまかせるのでなく、自らの意志で実現しようというのである。「千里の道も一歩から」「ローマは一日にして成らず」「塵も積もれば山となる」ということを最初に信じて行動できるかどうかである。
 我々が今どっぷりと漬かってしまっている悪しき習慣は何であろう。それをやめることは新しい習慣を作ると言うことである。「今、自分にできることは何か」をみつけ即実行することであり、それを続けることである。目標がはっきりしないと三日坊主で終わってしまう。だから三日坊主にならないことを目標にするというのは、的はずれである。最近インターネットブログを立ち上げた人が 1000 万と激増しているが、その2/3は三日坊主だそうである。目標が不明確のまま、手をつけるから長続きしない、だからそれを続けることを目標にしても意味がない。
目標を明確に定めて、最初から確実にできる小さな「一歩」から始めること、そして決して諦めないことである。

※1「七つの習慣」スティーブン・R・コヴィー著、川西 茂訳、キング・ベアー出版、世界的なベストセラー
※2「どんぞこからの成功法則」堀之内九一郎著、サンマーク出版

   1.13 夢とは何か

 夢が難病を治した例がある。沖縄の女子中学生が再生不良性貧血となり余命2ヶ月で希望を失う。あるとき「どんな病気も心までは壊さない」と聞こえる C D に出会い、それをいつも聞いていた。治療も限界に近づいたころ、「C D を生で聞きたい」という夢を持つ。周囲の協力でコンサートに出かけた後奇跡が起きた。体は回復に向かい骨髄は普通に戻った。夢の実現を強力に願い、それが彼女を死の淵から生還させたのである。「ピアノの先生」になる夢は「養護学校の先生」に変わったが、もうすぐ彼女は大学を卒業する。※1
 夢は不可能と思えるから夢であり、期限がないから夢という。しかしその霞んで見える夢と現実とを細い糸で結んでおき決して切ってはいけない。
 末期のガン患者がかってはフランス旅行の夢を抱いていた。しかし病気と資金もなくあきらめていた。あるカウンセラーが彼に夢の実現方法を助言した。「旅行は絶対に実現しよう、そのために必要なものは何か。洋服や鞄、靴もいる。」しかし金はない。今買えるのは靴のひものみ。「ではそれを買いに行こう。」といって実際に行動を起こすのである。将来の夢を実現するために今の行動が繋がっている、何時実現するか定かでないが着実に夢に向かう行動を行っているという認識が大切なのだ。「ガン? そんな無意味なことに関わっていられない」という彼はガンも消えて、夢のフランス旅行を実現した。
夢や希望は病気を治すだけではなく、人生そのものを激変させる。終身刑で服役している凶悪な殺人者が社会に復帰し大学で教鞭をとるという信じ難いことが実際に起きるのである。
重犯罪人の多いミズーリ州イースタン刑務所でのこと。白血病のキンバリーという少女 6 歳のことが囚人に知らされる。医療費は多大な借金となるが、明るく振る舞うキンバリーに囚人たちは彼女を助けるために動き出す。夢も希望もない終身刑の囚人達に大きな夢ができたのである。その中の一人殺人犯マイクは模範囚から「仮釈放」となる。キンバリーとの交信を続け、彼は猛勉強の末コロンビア大学へ進み、現在同大学で、社会学の先生として教鞭を振るっている。 一方キンバリーは婚約し幸せな日々を送っている※2 
 大きな夢の実現は一足飛びにはできない。階段を一歩一歩昇る努力が必要である。大きな夢は最初はかすんで見える遠くの山のようである。その山に行きたいと思う願いが強ければ強いほど山ははっきり見えてくる。木々が見えるようになる。頓挫しかけても、決してあきらめず歩く。多くの人の協力を仰ぐこともある。こうして必ず山に到達する。夢が夢で終わるのは、その実現のための行動を伴っていないからである。それを「夢想家」という。夢を描きながら心のどこかでその実現を否定しているのである。だから行動が起こせない。夢の実現にはその行動とともに、決して諦(あきら)めない強力な信念も必要なのである※3
子供に対して「夢は何か」問えば直ぐに答えが返ってくることが多い。たとえそれが小さくても大きくても問題ではない。
夢を持っていることが大切である。しかし大人に対して同じ質問をしても果たして即答できるであろうか。
「夢は必要」と説く本の著者が、「あなたの夢は何か」と読者に問われて答えに窮したという話もある。大人が夢を語れないのは現実の自分と今語っている「夢」とのギャップが大きすぎて恥ずかしくなるのかもしれない。夢は必ずしも人に話す必要はなく、自分の心に秘めて行動を起こす事もできる。しかし多くの場合、夢を語ることで人々が助けてくれる、それは前述の例でもわかる。あなたが道に迷って、人に尋ねれば、必ず正しい道を教えてくれる。故意に違う道を教える人はいないと思う。「求めよ、さらば与えられん」とのキリストの言葉は「夢」の実現に大きな助けになる。小さな夢の実現は可能であり、その積み重ねが大きな夢の実現につながる。「千里の道も一歩から」である。将来の大きな夢を持ち、当面の小さな夢を持つ。小さな夢なら実現は可能である。しかし小さな夢と大きな夢とつながっていることが大事である。それでも夢は変わることがある。それでも良い。夢があることそれが最も大切である。

※1 フジテレビ、バラエティー番組:感動のアンビリバボー、2003/2−13
※2 日本テレビ、バラエティ−番組:ザ!世界仰天ニュース、2004/12−22
※3 「成功哲学」 ナポレオン・ヒル著 田中 忍訳 産業能率大学出版部刊

   1.14 群盲象を撫ず(木を見て森を見ず)

  盲目の三人が象に触った。耳に触った人、足に触った人、尻尾に触った人、それぞれが自分の感想を述べる。異なる意見になるのは当然である。たった一つの例をもって全体を想定して議論するというのがこの諺の意味である。社会が複雑化・巨大化するにつれ一人で世の中の事象全体を理解するのは難しくなっている。それを自らのわずかな経験で物事全体を測ってしまう。これは著名人でもこの罠にはまる。郵政民営化を論議している議員が、賛成派に対し反対議員が言う。尼崎での列車事故を引き合いに出し「何でも民営化すれば良いわけでない」といった。ただ一例をもって全体が問題だとする、本人自身も気がついていないような発言である。国会の議論というのは時々こういうのが見られる。また「年に3万人が自殺しているから不況対策を考えろ」といって野党議員が与党にせまる。しかし好況の時から自殺者の数はほとんど変わっていないのである。
 殺人事件や事故が起きると「日本の安全神話が崩壊した」と報じられる。しかし何十年も前からそういう事件は起きていたのであり、近年になって急に増えた訳ではない。我々が殺人事件に遭遇する確率は極めて小さいから、危険な世の中と思う必要はない。安全神話が何時できたのかは知らないが、犯罪は急激に増えたり減ったりしていない。
学校で事件や不祥事があるとのニュースに、人々はすべての学校がそのような状態にあると思ってしまう。連日のように報じられる振り込め詐欺や悪質リフォーム業者の報に接して、日本も住みにくくなったと嘆く。非常に多くの人が被害者になっているように思えるが実際は犯罪全体から見れば、まだまだこれらは少数派である。
日本に来た著名な外国人が、夜の繁華街にたむろしている女子高生を見て、「これでは日本の将来はない」と発言した。では、逆にボランテアの女子高生を見たら「日本の将来は明るい」というのであろうか。海外に旅行した日本人がそれぞれの国や人々をこういう風だと決めつける。わずかな日数滞在しただけで国全体を知ったつもりになっている。わずかな事例をもって全体がそうだと判断するのは品質管では常識である。全数検査などせずにわずかなサンプルを測定し、全体を推測する。
いわゆる抜き取り検査であるが、しかしこのことと表題の意味とは全く異なることである。同類のものの集団の一部と複雑雑多な集団の一部とは比較できない。実際の所、我々は知らず知らずのうちに群盲の一人になっている、あるいはされているのかも知れない。日本人がノーベル賞を貰ったり、オリンピックで金メダルを得ると、「日本人は優秀な民族だ」とか、ある人が「命の危険を冒して人を助けた」というニュースをみて、「世の中捨てたものではない」などとと単純に思ってしまう。
これらは人間自体に由来する事柄であるが、科学的なことになるともっと群盲にされてしまう。ダイオキシン、狂牛病、放射能汚染、電磁波などなどあまりに負の部分を誇大に強調されている。まして報道される内容自体が脚色されてしまうとなお更である。
現在ハウツー本が数多く出版され絶えることがない。「何々はこうすれば良い」「何々はしない方が良い」などの本である。既に言い古されたことの焼き直しも多いが、いかに自分の狭い経験だけでものごとを判断し、あるいは一部分だけを強調して全体も同じだとする狭量な主張が多い。以前「買ってはいけない」という本が発行され、大きな論争を巻き起こした。有名な食品や日用品を名指しで取り上げ危険だとするものである。多量に摂取すれば危険でない物はなく、それらが危険ならば「食塩」は最も危険なものになる。純粋な水でさえ危険きわまりないものになる。この論法だと車も危険だから一切使用禁止、外出もするなということになる。一部をのみを強調し、全体を量る現象がここにも見られる。すべて物事には適度というものがあり、だから薬も適量が決められているのであり、薬は本来毒性があるから効能がある。
これらの情報はテレビや書籍を通じて得られるが、「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」である。
群盲の一人が主張することに惑わされて自らを群盲にされないよう、情報の取捨選択に十分すぎる注意が必要である。

  1.15  一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ

  誰か一人がいい加減なでまかせをいうと、噂が噂をよんで事実のように広がってゆく、というのが表題の意味である。一人の学者がある研究成果として、論文を発表する。その分野ではその学者しか研究していないとすると、それが正しいかどうか判断ができないから信じるしかない。学者でなくても、特別な職業にある者がその仕事を通して得た情報を公表すれば、他はそれを信ずるということになる。
 「100人の地球村」という表題の文章がインターネットで大きな広がりとなり、書籍まで出版された。現在の世界の人口を100人と仮定して世界の現状を述べたものでる。インターネット上を一人歩きしたこの文章には勝者のおごりだと若干、批判もあるが、分かりやすいデータが重宝され、多くは感動するものとして受け入れられたようである。しかしここで問題なのは、肝心のデータである。その中に「70人は字が読めない」とある。世界の文盲が 70 % という数字に誰も疑問も持たず、修正されることもない。現在の世界で 40 数億人が文盲というのは何を根拠にしたものだろう。フィクションではなく、現実を知らせる意味のものだから著作権など関係なく修正は可能なはずであり、実際原作は様々にモデファイされているがデータはそのままである。ユネスコが発表する数字は 2002 年で 25 % であり、1990 年の数字にしても 70 % は低すぎる。一旦発表された数字は一人歩きし、それをすべての人が疑問を持つことなく受け入れ信じてしまう。誰かがでたらめとは思っていなくても、その主張がそのまま無批判に広まる様は、まさに百犬が吠えるのと同じである。
もう一つ例を挙げるとすれば「地球温暖化」問題である。それは1981年、NASAの大気学者、ジェームズ・ハンセン氏が発表した論文が「二酸化炭素が原因となる地球温暖化」であった。それによる不吉な予言がマスコミに取り上げられ、これに引きずられる形で各国の政府や研究機関を動かして、1992 年には、国際会議「地球サミット」を開かせるに至った。そして「地球温暖化、二酸化炭素」は日常語となり、マスコミによって拡大解釈され社会の不安をあおり、混乱を引き起こす。二酸化炭素原因説に各国の研究者がくり返し同調した。一犬が吠えたから百犬が吠えた図である。
「地球温暖化」の原因は炭酸ガスの増加だけが原因ではなく、太陽活動の変動や海洋その他の要因説もある。少し前までは「温暖化」ではなく「寒冷化」を懸念する向きもあり、その方がはるかに影響が大きいとされていた。気象の長期予報でさえ試行錯誤の現状である。まして数十年先の地球温暖化の予測など推して知るべしである。要するに「温暖化」の理論は予想の段階でしかない。こういう状態で破局的未来を予測し、マスコミだけでなく各国の政府や国際機関レベルで対策を打ち出すべきだという警告が行われた。結果は「京都議定書」の発効に至る。 現在「二酸化炭素説」を是とする人が大半であり、異論を唱える人は少数派である。まだ科学的に確定されていない理論に基づいて政策が決定されることが問題である。だからといって天然資源を無駄に消費して良いわけではなく省エネは進めるべきである。曖昧な説をとりあげ、「みんなで渡れば怖くない」式は、この場合「百犬影に吠えれば1億影に吠えた」状態である。こうなると正しい理論があったとしても声の多さに消されてしまうことの方が恐ろしい。(P226 二酸化炭素は.....を参照)
 ビッグバン理論や進化論が間違っていたとしても現実的な打撃を受けることはないであろう。
しかし、国や自治体がそれに予算を付けて実行してから、あれは間違いだったとは、口が裂けてもいえないことである。もし理論が嘘と分かっても「あれは正しかったのだ」と言い続けるであろう。
「大地震」、「火山の爆発」などは単なる予想と見なせるが、「ダイオキシン」「狂牛病」も嘘といえば、まさかと思われるであろう。ダイオキシンについては「ダイオキシンで死んだ人はいないけど、それによって生きている人は多い」と皮肉られるほどである。つまり危険でないものを危険だと言いふらし、それを「生活の糧」にして生きている人々のことである。狂牛病についても、「狂牛病で病気になるより、それを買いに行く途中で車にひかれる可能性が大きい」というのは真実である。簡単に言うとその危険性は極めて小さく問題にならないのである。
 不確実な情報を誰かが言い出し、それをマスコミがあおる。全員がそれを事実として受け取る。正確な情報の入手が難しい市民はそれを信じるしかない。しかし科学的なニュース報道には疑いの目をもって見るのも必要である。知らないうちに百犬のなかの一匹にされているかもしれない。

   1.16  (あつもの)()りて(なます)を吹く

  羮(あつもの)とはフ−フ一とさましながら食べる熱い料理である。それでやけどをしたため、今度は膾(なます)のように冷たい料理までフーフーいって食べる。 一度の失敗に懲りて無用の用心をすることである。これを笑える人がいるであろうか。多分多くの人が知らないうちに行っている行為であろう。
人に指摘されて初めてその馬鹿らしさに気づくかもしれない。
一度泥棒に入られた人は必要以上に鍵を取り付け防備を固くする。感電した人は電気関係の作業ができない。ガス火でやけどした人はガスを使わない。落雷を身近に経験した人は晴天の日しか外出しない等々である。ごく一部の人だけでるが、しかし他人が経験したことは即自分の経験とならないところが不思議である。飲酒運転による事故を知らない人はいないであろう。それを知っていながら飲酒運転がなくならないのは自らの体験以外は無関係ということである。 膾を吹くのは何も個人だけでなく、社会的現象として生ずることでもある。回転ドアで死亡事故が起きる。すると回転ドアそのものを捨ててしまう。
事故の原因となった不具合を直せば済むことであり、ドアそのものを捨てることはまさに膾を吹いていることになる。学校でカッターナイフでの殺人事件が起きると即カッターナイフを禁止にする。そういう事件が再発するなどあり得ないことであり、実際一度限りのことである。
プールでの吸引口による事故死、エレベータの事故などへの対応の仕方はまさに過剰反応である。
事件や事故のニュース報道によって生ずることがある風評被害もまさに消費者の無用の用心が引き起こす。原発で事故が起きると、周辺の農産物が放射能に汚染されたとして、農家があらぬ被害を受ける。 しかしこういう事件は時間が経つと忘れられてしまうが、逆に長い間忘れていない経験もある。
例えば国歌や国旗に対して、それらは軍国主義につながるとして拒否反応を示す人々である。この意味で拒否するなら、日本語も日本国土も日本人も拒否しなければならなくなる。「...膾を吹く」行為は最大の自己矛盾である。
最近日本全体を覆っている自己矛盾的行為は個人情報保護法にまつわるものである。この法律が施行される前後から賛成派反対派が入り乱れて、かしましい。そのいずれもあり得ないことを懸念して論争している。国勢調査に際しても、その過剰反応により調査員が困難な作業を強いられることになる。
そんなに個人情報が重要なのであろうか。何処の馬の骨か分からない個人のわずかな情報が入手できたとして何の役に立つのだろうか。それが販売業者に利用されたとして財産が奪われるわけでない。
ダイレクトメールが来たとて無視すればいいだけの話である。犯罪に巻き込まれるかもしれないなどと言うが、それは何か個人としてやましいことをしているからではないか。個人情報を隠したがるのは、人に知られては拙いことをしているからとしか思えない。
他人から「これが私の個人情報だから見てください」といわれてもすなおに見る人はいるだろうか。個人情報が何万人分漏出したとかが頻繁に報道されるが、それによる実害は聞いたことがない。
卒業アルバムにいちいち親の許可が必要だとか、緊急連絡網が作れないとか、医療機関では患者を名前で呼び出せないとか、町内会の名簿には電話番号が消えるとか、過剰反応のオンパレードである。 個人情報保護法があること自体、「過剰な匿名社会」を生みだし、「地域連携の弱体化」・「他人への無関心」となり、地域で発生する事件は防ぎようもなくなる。
一度の失敗による無用の用心は個人的にも、公的にも大きな損失である。人間の弱さがそうさせるのかもしれないが、基本的には知識の不足、無知がもたらすものである。原因を究明する努力なしに、近寄ることを避けてしまう。それは確かに同じ事故は起きないかもしれない。しかしそれを続けていれば
技術の停滞を招きかねない。個人にしても生活に大きな支障を来すことになる。
事の本質は何かを確かめることである。熱い料理をそのまま口にすれば、やけどをするのは当たり前である。どうすればいいかは、それまでの経験で百も承知の筈である。そのことを忘れて無用の用心をする、それは自分では気づかないかもしれない。しかし他人がやっている、その馬鹿馬鹿しさを想像してみるとよい。  

   1.17  価値観

 価値観とは何とももったいぶった印象を与える言葉である。人生観とか宗教観とか人の一生を左右するような大きなことから、「選挙には行かない」とか「病院には行かない主義」とか日常の考えを指す言葉でもある。価値観とはその人の成長過程で培った人生に対するものの見方や生き方である。その人が育てられた環境、宗教、風習、因習、社会的、家庭的なものすべてが影響する。何を生きがいとし何を重要視するかということである。現在は価値観が多様化しているというが、価値観というのは終生変わらないものが多い。日本人の 8 割が初詣でに行くというデータがある。そしてそのほとんどは既にクリスマスを楽しんだ筈の人々である。宗教的行事と認識していく人、単なる風習としてしか考えない人など、この行為一つとっても価値観は一様ではない。
価値観が変わるとき
 A という人は B が大嫌いである。だが A が死の危険にさらされたとき、B が助けて命の恩人になったとする。こうなると A は B が大好きになる。人生を左右するような衝撃的事件に遭遇するとその人の人生観や価値観ががらりと変わる。
「禁煙するくらいなら死んだ方がまし」とうそぶいていた人が、「このままだと肺ガンになる」と診断されていともあっさりと「禁煙」した人がいる。
書物やニュースその他の情報を容易に信じ込み、それを金科玉条として記憶に刻み込むとそれもまた価値観となる。何の疑問も抱かず、素直に受け入れて自分の信念としてしまう。そうなるとそれに反する情報を受け入れる余地がなくなる。自分の価値観が唯一正しいものとしてすべてを判断する。自分の価値観と他の意見や情報を比較して考察する姿勢がなくこの意味では思考停止の状態になる。
習 慣
芸能人が離婚するときの原因として「価値観が違うので」ということが言われるほどに、小さいようで小さな問題ではない。「結婚しない」「子供はいらない」とか、あるいは「外国製品は買わない」なども価値観を形成し、このようなことが高じるとまさに「頑固一徹」になる。日常の事だから、「雨だれ石を穿つ」というように小さな事でも繰り返し行われると、我慢の限界に達することになる。変えられない習慣がまた価値観を形成する。
厄介な価値観
しかしもっとも大きな価値観を形成するのは宗教や政治的イデオロギーであろう。何時どのようにこれらが形作られるかは個人によってまちまちである。自分が無宗教であっても他人の宗教的価値観を批判をすることもあり、また逆に素直に認めることもある。人が何かを他人に勧めるとき、彼が「それは私の宗教で禁じられている」といわれれば、人は素直に引き下がる。宗教的価値観には何人も逆らえないのである。総理大臣が靖国神社を参拝すると賛否両論がわき起こる。公人であろうとなかろうと、どんな理由をつけようと、それは個人の価値観にもとづく行為であり、他人がとやかく言うことではない。政治的イデオロギーも同類である。「私は共産党員だ」といっても誰にも非難されることはない。そして彼らが他の政党にくら替えするというのも極めて考えづらい。社民党が自民党にくら替えするというのもあり得ないことであろう。
では科学的思想はどうか。進化論者は創造論者を決して容認しない。この逆もしかりである。
ビッグバンや相対性理論を信じている人は反対者を糾弾する。最初から彼らは自分の信条を絶対としてるから、正誤の論争しても、全く理論がかみ合わない。政治的、宗教的、科学的にそれぞれが有している価値観はかなりしつこいのである。
科学的知識に疎(うと)い状態は、科学的に説明されると正誤の判断ができないから簡単に信じてしまい、それが信念となり価値観となる。前述の書物や科学的ニュースなどがこれに相当する。
共 有
集団としての価値観は変えようがないかもしれないが、しつこくても個人の価値観は絶対不変ではない。夫婦や恋人が又は親子で、最初は同じ価値観を持っていても時経て一方が変節する場合もある。小さな価値観なら認め合うことができても、宗教的、政治的価値観なら互いを認めるのはかなり難しくなる。多様な価値観が存在する現代社会、それらは認めるにしても、身近な人々の間では、同じ価値観をもつ努力が必要とされる。それが争いを少なくする秘訣でもあろう。

   1.18  騙される

 「人はなぜ騙されるのか」※1 という本を購入した。だが答えは得られない。この本には騙された実例は多く記載されているが、「なぜ」という疑問に全く答えていないのである。内容からすれば「騙しの手段と実例集」とでもするのがふさわしい。こういう表題の本を買って騙された気分になるのは皮肉である。この本だけではなく、一般的に「なぜ○○は○○なのか」などという表題の本には「答え」がないようである。簡単に答えが出せるほど単純な事ではないからである。さてついでだからこの本から一つだけ騙しの例を挙げてみよう。
霊媒の元祖(ニューヨーク1848年)とされる「フォックス姉妹」の膝の関節音を降霊だとする偽りの事件である。霊界と現世の通信を可能にすると言うこの現象に人々は約40年間騙されたのである。
人々を騙すことに悩んだ姉妹の一人は自分の降霊術は偽りであることを新聞に発表し、公開実験までする。しかしこのあとの一部の人々の反応が問題である。本人自身がインチキだと表明しているにもかかわらず、なお「あれは無理に告白させられているのだ」と本人の自白を信じないのである。
新興宗教にマインドコンロールされたようなものであり、記憶にがっちりと根を下ろし金輪際変えることをしないしできない。これを称して「バカの壁」とでもいうのであろうか。振り込め詐欺にあって、警察に偽物だといわれても「いやあれは息子に違いない」といいはる人と同じである。騙されたことを認めたくない人も又いるのである。
 人が騙される環境というのがあるようである。
1. 集団の中で催眠状態にさせられる。
2. 緊急状況でパニック状態にさせられる。
3. 褒められていい気にさせられる。
4. ストレス状態を利用される。
5. 権威に弱いことを利用される。
などなどである。まだ外にも考えられるが、しかし
自分なりの少ない経験で考えれば騙されるのは「無知」が最大の原因と思われる。金融関係の人が「振り込め詐欺」に遭ったという話しは聞いたことがない。彼らは金銭に関して「無知」ではないからである。騙されないという自信のある人はいないかと思われる。しかしながら次のような人は騙されやすい傾向にあるだろう。
1. 科学に弱い(降霊術、UHOなどを信じる)
2.占いを信じる(星占い、風水、手相、人相等)
3.権威や肩書きに弱い(弁護士、教授、医者等)
4. スターに弱い(スポーツ、芸能等)
この中でも特に「科学的無知」が最大の要因であると思われる。いまだに、太陽が地球を回るという天動説を信じている人がいる。「学力が低下した」といっても、これはもともとハイレベルの一部の人々が低下したのであろう。多くの人々は一般に科学的知識に弱いのである。それゆえ「霊感商法」に騙され、不必要な消火器を買わされ、高額なダイエット食品やサプリメント、漢方薬などを買わされてしまう。「無知」が原因とはいえ、多様化した現代ではそれぞれの分野に精通するなど不可能である。しかし科学的知識が余りにも欠けているということは、その他全般の基礎知識も欠けているということになる。暦にはいまだに「大安」「仏滅」などの記載があり、大量の「六星占術」の本が店頭に並ぶ。またテレビでは毎日「星座占い」の番組を流している。これらを信じる人が多いからであろう。日本には「縁起をかつぐ」ということがある。「茶柱が立つといいことがある」とか、また外国にも「ジンクス」という言葉があり、「13日の金曜日」とか「黒猫が前を横切る」などである。これらにこだわる人は既に騙される要素が備わっていることになる。有楽町の駅近くに「宝くじ売り場」が並んである。1番売り場には行列を作っているが他の2番以上の売り場は殆ど無視され人がいない。「1番売り場から当たりくじが多くでる」と信じているのである。確率的に全く無意味なことであり、いかに科学的無知かを象徴しているようである。
故に多くの人々が騙しの被害にあう可能性がある。騙しのプロが横行しマスコミでさえその片棒かをかつぐ。「納豆でダイエットができる」というにいたっては「騙されるな」という方が無理であろう。「浜の真砂は尽きるとも.....」五右衛門ではないけれど盗人に加え「騙す人」も絶えることがない。故に「騙し」に対する対処法は信頼できる人、信頼できる機関等に相談することである。騙す人より善良な人が圧倒的に多いのである。
※1「人はなぜ騙されるのか」安藤育郎著、朝日新聞社刊

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