8.1 蜂の巣を工場で作る 8.2 畑違いの用途 8.3 アルミハニカム 8.4 再び塩ビハニカム
8.5 汚水処理装置 8.6 ロールコア 8.7 再びアルミハニカム 8.8 フィルター
8.9 サンドイッチ構造 8.10 我が立つところ深く掘らば・・・ コーヒータイム(9)上杉鷹山
執筆後記(第八章)
2007 年 3/8日 の読売新聞に全国自治体の首長に対するアンケート(理想とする首長)の結果が掲載されていた。以前(8年前)吉田茂や、田中角栄が上位に並んでいたということであるが、今回は上杉鷹山がトップになっていた。二位が徳川家康、三位が坂本龍馬である。またケネディ大統領が就任当時「日本人で尊敬する人」との記者の質問に「上杉鷹山」と答えたが、質問した記者自身が知らない人だったという。日本人にはあまり知られていなかったらしい彼の名前がここに来て急浮上してきたようである。明治の時代に内村鑑三が「代表的日本人」という書物を英文で発行し海外に紹介した人物が、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮、西郷隆盛の五人である。故にこれらの人々は日本より海外で知名度があったのかも知れない。
上杉鷹山は米沢藩主上杉定重の養子となり、17才で第九代藩主となる(1767年)。破綻に近い藩の財政を立て直したことで有名である。現在の体制からすればわずか17才で何ができるということになる。たとえば借金まみれの夕張市の財政を立て直せと高校生を募集したとする。高給を約束しても応募する人はいるであろうか。しかし鷹山には細井(ほそい)平(へい)州(しゆう)という師匠がいた。しかしそれでもなぜ改革が成功したかは説明できない。大凶作が何年も続くという最悪の状況の中でありやはり生まれながらの天性というのがあるのであろうか。
そして鷹山には幸(よし)姫(ひめ)という決定された妻がいた。しかも心身ともに発育不全、成人になっても幼児のような妻であるが、彼女が30才で亡くなるまで慈しみ側室は持たなかった。悪いところはひとつもない殿様であるが、改革と言えば必ず反対者が出る。やはり藩主になって6年後、重臣達の反乱に遭う(七家騒動)。反乱者は鷹山に直訴するが、その内容の嘘がばれる。当然厳しい処置が下り、首謀者二人は切腹させられる。当時としてはやむを得ない処置であろう。
財政を立て直すといっても、入るより出費が多くては手の施しようがなく、徹底した財政切り詰めを行い、自らの生活費を7分の1にしたという。貧乏さながらの生活を余儀なくされ、さらに年収の7倍近い借金がある。今でこそ住宅ローンなどのシステムは常識であるが、これだって明治の最初に始めた頃は最長で15年である。それを彼は35年間で返済するということを借り主に認めさせたというのも驚きである。
「成せばなる、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」。これも鷹山の言葉であるが精神論だけでは乗り切れない筈である。彼は率先して農作業を行い役人にもやらせた。天明の大飢饉が何年も続き米沢藩だけでなく他藩でも財政は逼迫する。鷹山は米の備蓄を行い他藩では数万人の餓死者がでても米沢藩には一人もでなかった。そして当時は貧乏の故に子供が生まれてもすぐに殺してしまうという「間引き」ということが行われていた。また老人は野原に捨てられるいわゆる「姥(うば)捨(す)て」もある。こういうことにも給付を行い未然に防いだ。
「棒杭(ぼうぐい)商法」というのがある。人のいない道ばたに棒杭を立てその下に農産物を置く。表示された商品の代金はかごの中に入れ、その分の商品を持って行く。当時の無人の自動販売機である。外国では絶対に考えられない商売である。これが貧しい米沢藩でのことだと知ったときはさらに驚いた。為政者が名君であれば下これに習うということであろう。
さてここで上杉鷹山を取り上げたのは他でもない。藩の財政を立て直した大本(おおもと)をなすもの、それは「ものつくり」なのだということである。米沢藩も例外ではない。鷹山は養蚕・製糸・織物・製塩・製陶などの開発に取り組んだ。そして漆の実から漆蝋を生産し、楮(こうぞ)から和紙を作り、桑の葉で蚕(かいこ)を飼って、生糸をつむぎ絹織物を作った。鷹山に関しては数
冊の単行本がある。日本人として是非知って置きたい偉大な人物である。
1. 第八章の概要
昭和33年(1958)に北海道庁が日本で初めてのペーパーハニカムを生産する会社を発足させた。
道庁が大株主であり、翌年工場建設の最中に私はそこへ就職した。マーケットリサーチなど何もせず、需要の全くない市場でいきなり生産を開始したのである。当然売れる筈がない。魚が全くいないところで釣りをしているようなものである。役所のすることと言ってしまえばそれまでだが、偶然とはいえ本来の用途と全く違う用途に販売の糸口をみつけて、一息つくことになる。だがそれだけで事は済まない。その用途でさえ新たな開発がなければ即売上げは皆無となる。売上不振の中で技術者である上司は次々退職し技術者は自分一人だけとなる。社長は役人上がり、そして総務、営業、工場など他の部署にも技術者はいない。加えて仕事の内容は日本ではじめてのこと、何所にも相談や参考にする所がない。一兵卒の私が技術の総責任者であり、技術的決定権は社長より上である。
入社して半年後、生産設備に不満を抱き、全く新しい方式のハニカムの製造法を発明し特許出願する。この特許が査定され以後この特許は会社を存続させる上で重要な特許の一つになった。
「石橋を叩いて渡る」というのは「用心に用心を重ねる」ことであるが、「石橋を叩いても渡らない」というのもあり、超慎重派を言うらしい。しかし過去に私が行ってきたことの幾つかは「叩くべき石橋がない」のに渡るということを行ってきた。たとえば未だ世界に存在しない製品を受注するということである。数量、価格、納期を決定し、作る方法から研究を始め、生産設備を開発し、設置場所も考え自ら生産もする。「出来るかどうかは神のみぞ知る」という無謀なことを約束するわけである。
「叩くべき石橋はない」けれど「架空の石橋は大いに叩いている」のであり、無茶をしているとは思っていない。そんな経験を綴った一章である。
2. 開発ということ
「アポロ13」という映画を見ていたとき、計算尺が写っている画面が表れて驚いた事がある。
そうだあの頃はまだ電卓なんてなかったんだ、計算尺が計算の主役になっていたのである。その計算尺は現在、姿を消している。時代と共に商品は変遷して行くから「ものづくり」に開発は欠かすことができない。昔のままの商品が今も生きているというのはごく少数である。
この「アポロ13」を見た後、この映画をぜひ部下にも見せたい、いや部下だけでなく、開発を担当してるすべての人にと思ったものである。酸素タンクの爆発をきっかけにアポロ13号に次々と難問が押しよせてくる。時間との戦い、孤立無援、閉鎖空間、船内の限られた器具類や材料という状況での問題解決策である。この映画は問題を解決するにあたり、不可能はないということを教えてくれる。
開発という行為は「あちら立てればこちらが立たず」という状況を連続して克服する事である。
さらにいえば「チャチなものはチャチな方法で解決できる」ということである。
技術者は往往にして「鶏を割(さ)くに焉(なん)ぞ牛刀(ぎゆうとう)を用いん」という間違いをする。煙草の火を消すのにバケツ一杯の水を使うようなことを、気がつかないでやることがある。
開発は最小限の費用で行うのが良い、今あるものを最大限に活用し、小さい問題は小さいなりに、大きい問題は大きいなりに工夫することである。「アポロ13」はそれを教えてくれる。事実と違うところがあるとしても、映画だから誇張もある、しかしその精神を学ぶ事はできる。
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