マッカーサー元帥や松下幸之助氏が座右の銘とした「青春」という詩がある。
アメリカのアラバマ州バーミンガム市でサムエル・ウルマン(ユダヤ人)が「80才の年月の高みにて」と題する詩集を自費出版し、その巻頭を飾った詩である。それが「リーダース・ダイジェスト」に掲載され、巡りめぐって、日本の一地方紙に掲載された。多くの翻訳があるけれどなかには古い文体もある。長い詩であるが筆者が訳すと次のようになる。
青春とは人生のある時期をさすのではなく、心のあり方のことだ
それは単に紅顔の面持ち、紅い唇、しなやかな肢体などを言うのではない
青春とは、強固な意志、豊かな想像力、激しい情熱を指し
臆病を捨て去る果敢な勇気、安易さを退け冒険を求める飢えた心を言う
人は歳を重ねるから老いるのではなく、理想を失うときに老いるのである
歳月は皮膚にしわを刻むが、情熱の消滅は魂にしわを刻む
悩み、疑い、自己不信、恐怖、絶望、これらは長い年月にわたり人を老いさせ
生気ある魂を死に至らしめる。 70才であろうと16才であろうと、
その人の胸中には驚異に惹かれる心あり、星空の摂理に驚く心あり、
事に処する大胆な挑戦あり、子供のごとき好奇心あり
そして人生への興味と歓喜がある。
人はその信念に比例して若く 疑惑と共に老いる
人はその自信に比例して若く 恐怖と共に老いる
人はその希望に比例して若く 絶望と共に老いる
人は全能の神から、人から、大自然から、その美しさ、雄大さ、力強さ、喜び、
勇気などの霊感を受ける限り、何時までも若くある
これらの霊感が途絶え、皮肉の氷が心を固く閉ざし、
悲嘆の白雪がこれを覆いつくせば
その人は真に老朽と化する。頭を高く上げ
希望の波をとらえる限り、人は何時までも青春である。
以上のようなものであり、詩というより散文のようであるが、「心が若いことが青春なのだ」という主張には多くの人が共感したようであり、この詩「青春」を主題にした単行本まで発行されている。私も内容には同感であり同じようなテーマで書いたのが第一章のタイトル頁に掲載した「明日は私の風が吹く」である。

この詩の内容は、第一章本文で半分くらいは説明されているかも知れない。それでもあえてこの詩について解説してみる。
一番:「絵に描いた餅」という軽蔑的な諺がある。しかし見方を変えれば、絵になるからこそ実物を作ることも可能になる。故に「絵に描いた餅」は夢を実現するための第一歩であり、ここからすべてが始まるのである。この諺の意味をかねて表現したのが最初の一行である。
そして夢には当然に「幸せ」や「裕福」や「薔薇色の人生」を求める願いがあり、貧乏を願う夢などはあり得ない。それは薔薇色が強く心に染みついたようになる。また夢が大きければ大きいほどその実現は何時のことか解らない。「夢は実現するためにある」とか、「実現しなければ夢でない」とか言う人もいるが、あまり固く考えると、摩擦だらけの人生になるかもしれない。だが確実に夢に向かうためには、その実現のための努力が必要である。それは「賽の河原で石を積む」ことに似ている。「賽の河原」の話をこの世(娑婆(しやば))に置き換えてみた。
「賽の河原」とは死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の三(さん)途(ず)の川の河原。ここで子供 は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず大鬼にくずされ
る。積んでは崩され積んでは崩される。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うと言われ ている。
小さい時からの学習や習い事、夢に繋がる様々な技術の習得など練習につぐ練習でなければ身につかない。また様々な仕事に失敗はつきものである。それは石を積んでは崩される子供に似ている。そういう努力なしに人は成功しない。それはまた自分のためでもあるが、広い意味では、家族や会社、もっといえば人類全体に何らかの小さな足跡となり、ずっと未来の奇跡の成就に役に立つものと信じたい。日常の普段の努力はこれからの奇跡の始まりの一里塚となる筈である。
二番: 「覆水盆に返らず」という諺がある。こぼれた水は二度と盆には戻らない。過ぎ去った過去に未練を持ち、どうにもならないことにいつまでもこだわり、人生を無にする人が居る。肉親との死別、離婚、仕事の失敗など、連綿と後悔の念を持つ。またこれから先のこと、まだ起きてもいない出来事を心配し、取り越し苦労をする人が居る。
貧乏への怖れ、失業の怖れ、病気への怖れ、危険な事柄への恐れなど未来のことを悪い方に解釈してしまう。「過ぎたこと、これからのこと」これら二つを思い煩うのが人の常である。そんな悩みはきっぱり捨ててしまおう。そうすれば人生「重荷を負うて遠き道を行くがごとし」ということには決してならない筈である。まずは肩の荷を軽くすることである。
三番: 移り変わりの激しい世の中である。自分の夢を実現して行く中で時として他の事に目が映り心がゆれるかも知れない。しかし自分は自分、人は人、己の道を進むしかない。それを真剣に行うことで必ず道は開ける。熟考した末に選んだ自分の生きる道、それを根性をもって、しつこく諦めず続けてみたい。「我が立つところ深く掘らば必ず清泉が湧き出ださん」という言葉もある。自分の人生は自分で作る、それが私の追い風となって吹く筈である。
四番: 「人生わずか五十年」というのは昔の話、現在は100 年以上生きる時代である。それでも夢を実現するには、桜の花のように短い。これは自分しかやらないことだから急ぎたい。だからといって自分の夢の実現に夢中で、回りが見えなくなり、周囲の人々に無関心で自己中心的になってはいけない。時には夢の実現に無関係なことに関わらなければならないこともある。人として、家庭人として、社会人として、国民として果たす義務を忘れてはならない。それに多少時間が取られるとしても、それで夢の実現が阻害されることはない。そして何があっても夢を諦めなければ、「歳月、人を待たず」というけれど、この場合は「待ってくれる」であろう。
五番: 歳は取っても、心を若く保つことはできる。ここはウルマンの主張の別の表現である。「顔にしわ」ができても「心は玉の肌のようにつるつるで、若々しく皺はない」。ウルマンがいうように悩みや疑い、恐怖、絶望などは、心身ともに老人にさせる。何歳になっても夢は捨てない、何時までも若い心を保つ、それが青春ということである。
「
工学で扱う数字には必ず名前や単位がつく。単純な倍数の数字は別として物理量には単位が付きその単位について、法律(計量法)で定められている。国際単位系を基にして構成されているが、すべての技術範囲に及ぶので、聞いたことのない単位も出現する。それらのうち、汎用的に使用される単位を抜き出して説明した。
単位を理解することはまたそれに関連する技術内容も知らなければ完全な理解は得られない。
ゆえに出来るだけ、それらについても別枠で紹介することにした。しかしあまり使わない単位まで無理して知る必要はない。
2. 記述の内容
7つの基本単位と補助単位にはそれぞれ1頁を費やしている。単に定義だけでなく、その単位についての歴史や雑学的知識を紹介した。単位の中には名称が異なるけれど表示記号が同じものがある。たとえば仕事と熱量(J)、電流と起磁力(A)、効率と音響パワー(W)等である。
またヤング率は(Pa)であり、撓みは(m)であるが、これらは計量法に定めていない。しかし計量法に定めてなくてもこれらは重要な単位であり、このような例は他にもある。
単位記号は同じでも、名称が異なれば物理的意味も当然異なる。それらについては物理、化学、熱力学、電磁気学、材料力学などから必要な知識を得られるように解説し、またこれらの項目で説明しきれない内容については別枠で参考として掲載することにした。
物理や化学が分からなければ単位も理解できないし、この逆はありえない。だから内容の記述に は技術的事項の説明も必須となり、この章はちょっと高度な総合理科的内容である。
3. 単位の換算
簡単なようでいて、いざとなると戸惑うのが単位の換算である。この場合割り算なのか、かけ算 なのか、常時行うものでないだけに結果に自信が持てなくなることがある。換算のためのホームペ
ージもあるが、必要な時に直ぐというわけにはいかない。電卓があればそれで換算出来るのが手っ 取り早い。その方法をP.125で紹介した。単位換算表は通常、縦と横のマス目の表になっているが、
P126の表は縦だけで横はない。電卓での換算ではそれは不要であり、スペースを節約するための 工夫でもある。
4. 単位の歴史
最後の頁には単位に関する歴史を記述した。