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  第一章  心の技術

コーヒータイム(1) 日本という国

(1)憲法

 憲法改正論が盛んである。現憲法は昭和 22 年 5 月 3 日に施行されてから現在 68 年経過し、その間一回も改正されていない。外国はというと、アメリカは 18 回、フランス 16 回、ドイツ 51 回であり、少ないオストラリアでも3回である。日本だけ改正しないで過ごせたのは、改正手続きが難しいことと、解釈改憲をしてきたということらしい。憲法を拡大解釈して違反ぎりぎりでも、合法のように取り繕ってきたのであり、もうそれも限界にきている。「戦争を放棄し、そのための陸海空軍その他の戦力を保持しない」という憲法は世界唯一である。しかし自衛隊の有する武器は戦力でないというのも説明がつかない。68年という歳月は世界や日本の姿を大きく変えた。時勢に合わなくなるのは必然である。

(2)万世一系

憲法第一章は天皇について始まる。そして皇室典範第一条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」となっている。明治憲法の第一条にも「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であった。故に現在の象徴天皇にしても、「万世一系」であることに変わりはない。先祖をたどっていけば、神話にまでいきつくという事である。初代の神武天皇より125代、現今上天皇まで優に2,668年もの長い期間連綿と男系男子を継承してきたのである。時に盛衰や治乱があって消えかけた事もあったが、とにかく万世一系を守り通してきた、このような国は世界広しといえども日本以外に例を見ない(天皇年代歴表は付録4参照)。万世一系など捏造だという説もある。しかし万世一系を守りたいという意志は歴史を通じてあったことは事実であろう。真偽はどうあれその意志は尊重したい。真偽を論じても大昔のこと今更証明する方法はないであろう。現在も君主国は英国その他で29カ国あるがすべて血縁は中断されている。イギリスは11世紀に、デンマークは15世紀に中断である。天皇は「君臨すれども統治せず」でかなり以前から象徴的であり政治的権限を有していないことが多かった。鎌倉幕府以降も朝廷と幕府の二元体制があり、朝廷は幕府に統治の権威を与え、幕府はその権威を錦の御旗として利用した。自国が窮乏すれば、他民族から略奪すればよいという西欧とは違って、農耕民族の日本では、農民を犠牲にしては自分の首を絞めることになる。国民全体が家族的にならざるを得ない。日本は世界で最大にして最古の君主国である。

(3)日本の宗教(神 道)

今年(2008年)の正月に初詣をした人は優に9,818万人に達し過去最高であるという。このエネルギーは一体どこからくるのであろうか。中にはレクレーション気分の人もいるかも知れないが、これは日本古来の宗教、神道からくる風習であり、日本全体がどっぷりつかっているようである。自分だけは違うという人がいても、日本人である以上、神道の影響から逃れることはできない。皇室の生活は現在も神道の伝統によるしきたりのオンパレードである。冠婚葬祭は「古式豊に...」といわれ、歌会始は奈良時代から行われていたという。日本には独自の和暦(天皇の皇位継承の際に改める)があり、各種祝日(元旦、建国記念日、春分の日、こどもの日、文化の日、勤労感謝の日)等々も神道に起源を有する。しめ飾り、門松、ひな祭り、成人式、七五三、端午の節句、七草、鏡餅、節分、安産祈願、合格祈願、各地の五穀豊穣を願うお祭り、建築や土木工事の始めに行う起工式、地鎮祭、上棟式 等等、数え上げたらきりがない位、神道との関わりの中で生きている。神道には教祖、教義、教団、戒律がないから宗教ではないともいわれる。教祖がいないので、信者もいない。神道は氏神・氏子という血縁関係であり、神と人とが直接かかわることになる。そこに教祖たる人は介在せず、神職は代表として神社を管理しているだけである。その意味では一般的な宗教の概念には当てはまらない。故に宗教らしくない宗教である。教義はないが、それは人も含めた自然から学ぶということになり、そのため神と人との交流が「祭り」となる。宇宙や地球上の人も含めたすべての物質はわずか90種程度の元素から構成されている。その物質を破壊すればエネルギーになる。そのエネルギーは何かと問われれば、最先端の科学者も答えることができない。そこに神を持ち出すしかないのである。知ってか知らずか、すべての物質に「神が宿る」とする神道は最も科学的なのかもしれない。

(4)君が代

「君が代」は軍国主義や天皇崇拝に繋がるという理由で嫌う人がいる。しかし世界各国で忌まわし過去を持っていない国はない。それでも各国の国歌や国旗はほとんどが変更されずに存在している。我々は日本人であることを変えることはできない。歌を変えたところで過去を消すことはできない。君が代を「国歌」とすることは、過去から逃げず正面から向き合うことの意味にもなるであろう。
主要各国の国歌は戦争の歌であり、国家賛美の歌である。
 アメリカは米英戦争の時の歌であり、「敵の軍勢...」とか「砲音轟く...」とかの歌詞が並ぶ。
 イギリスは女王陛下万歳の歌であり、「御世の永きを...」「敵を砕き...」と続く。
 フランスは宣戦布告の歌であり、「血塗られた軍旗...」「武器を取れ...」と檄を飛ばす。
 ドイツは1.2番は他国の領土を自国のように表現するので禁止、統一を願う3番だけとしている。北朝鮮は自国賛美のうたであり、「旭に輝くこの山河...美しい我が国...」と自賛し、どこかの校歌のように穏やかな歌詞となっているのが不思議である。中国は革命の歌、共産党賛美の歌であり、韓国は愛国の歌である。「君が代」が軍国主義に繋がるという人たちは、「子守歌」なら戦争は起こないと考えるのだろうか。北朝鮮の現状をみると歌詞とは無関係である。戦争は絶対いやといいながカラオケで軍歌を歌う人もいるのである。

(5)安全な国

「水と安全はただと思っている」といわれた日本人、思っていなくてもそうである。外国のような城塞都市という物が日本にはない。四方の海が防御の役を果たしたから城塞は必要なく、他民族に征服されたことがない。侵略したりされたり、宗教戦争も絶えなかった諸外国と比べれば、過去の日本は安全であった。そして現在は、犯罪による命の危険に関して、「安全神話が崩壊した」などといわれる。だが、安全とは何か、1億人が住む国で何も起こらないなどと言うことはあり得ない。要は程度問題である。屋外に平然と置かれている自動販売機は日本だけの光景である。外国で同じ事をしたら、二、三日で破壊され中身がなくなるという。災害が起きると外国ではとたんに略奪が始まる。犯罪は年によって急に増えることも減ることもなく、国別にても
犯罪の多い国は何年経っても変わらない。殺人の各国比較は表に示したようであり、殺人以外の々の犯罪についても少ない国である。日本は世界の中で「安全な国」に変わりはない。日本は財布をとしても戻ってくる可能性のある国である。深夜若い女性が一人で歩ける国、幼い子供が一人でお使に行ける国である。小さな国はいざ知らず、経済大国のなかで日本は唯一の安全な国である。

(6)日本語

 日本語は日本の国語である。こんな当たり前のことが実は極めてまれなことなのである。国語といのはその国だけで使われており、その国では他の言語は使われていないということである。この条件満たすのは日本語だけである。日本国内で英語が通用する地域はない。他の国で日本語が使われていと言うこともない。それでも約一億人が使う言語であり、世界でも主要な言語であるが、逆にいえば界語にはほど遠いということでもある。日本語の起源は南インドのタミル語という説もあるがいまだ明である。文字だけは漢字を借用しているが、日本語に同化させ独自の言語を発展させた。それは非に複雑であるが、それだけに表現力も大きい。日本語には日本人にしか理解できない表現が多くある主語がなくてもまた単語を並べたような文でも意味が通じる。俳句には季語があり、枕詞というのもり、日本人にとっては説明なしで理解できるし、そこには暗黙の了解がある。(例:目に青葉 山ほととぎす 初がつを)。世界には3000とも5000とも言語があるとされるが、言語の違いの定義があいまいだから分類の仕方がはっきりしない。隣国に日本語に近い言語は見あたらない、これを孤立言語とう。日本語はひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字等が混在し字数も多い。しかしそれだけ柔軟性がり、入りやすいが奥も深い。日本人なら日本語に習熟することであり、小学生に他国語の学習は早する。

(7)自虐史観

自虐とは自分で自分をいじめ苦しめることである。「自虐史観」とは太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本軍は他国にこんなひどいことをした、残虐非道な悪いことをしたというものである。これに対し「自由主義史観」というのがあり、互いに論争を繰り広げている。「戦争責任論」「東京裁判」「靖国問題」「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などについてそれらが「あった」「なかった」、「いい」「悪い」という論争であり、特に歴史教科書が問題とされる。同一の史料を前にして、両者の見方が異なり、一方は偽物といい、一方は本物だとして理論がかみ合わない。終戦から62年しか経っていないのに、なぜ真実が分からないのだろう。こんな事では(2)で述べた千数百年前の天皇の継続がどうかなどの真偽を確かめるなど論外である。事実はどうあれ、当時の人々はすべてそのときの常識で行動したであろう。戦火を交えて居るときは狂気にもなる。
過去に生きた人々がその時点で正しい(?)とされる思想に基づいて行った行動を現代の思想を基準にして判断すれば、悪業となることもある。それを非難しても始まらない。当時の状況を想定し、その状況なら人はどう判断するかを考えなければならない。それでも悪なら悪とするべきである。現在の価値判断で過去を問うなら、多くの国の行動(宗教戦争、植民地支配、奴隷制度、侵略、略奪、人種差別等)は現在は悪であり、すべての国は自虐史観を持たなければならなくなる。しかし自虐史観を持つ国は日本以外にないのではないか。「自分を愛せないものは他人を愛せない」というのは正論であろう。これが原点になり、ついで家族を愛し、村を愛し、国を愛しとなる。自国を愛せない人が他国から信用されることは決してないであろう。

(8)武士道

宗教教育のない日本で「道徳教育をどうするのか」と尋ねられた新渡戸稲造は答えに窮する。そして後に日本人の道徳観念は「武士道」により培われていると気づき、[BUSHIDO 、THE SOUL OF JAPAN]と題する書籍を英文で表した。外国で発行され、後に日本に逆輸入されている。「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような封建時代のものと、明治以降の新渡戸氏の「武士道」とは同じではない。武士道の精神とは 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義の7つとされている。言葉だけでは何のことかよく分からない。簡単に説明してみよう。
「義」:これは正義を貫く心である。「フェアプレイ」の精神であり、不正を行って競技に勝つなど というの   も義に反する事である。戦国時代、今川氏真に「塩留め」された武田信玄に対し、長年 敵対関係にありなが   ら上杉謙信は「塩」を送る。戦いは力でするもの、食でするのではないとい う謙信は「義」の行為をしたこ   とになるのかもしれない。
「勇」:正しいことを行う勇気である。「義を見てせざるは勇なきなり」という諺がある。煙草をのむ 高校生   を注意して喧嘩になり、大怪我をしたとする。しかしこれは決して勇気ある行動ではない。 これは「血気の   勇」といい冷静さを欠いている。結果が予想され危険を回避する別の方法を考え るべきであり、それが見つ   からなければ注意しなくても「勇なきなり」とはならない。義を行う には力も必要であり、だから武士は鍛   錬し「文武両道」が求められる。勝てる自信があってもな お注意しないとすれば勇気がないということであ   る。「君子危うきに近寄らず」であり、無謀な 行為はさけなければならない。怖れるべき時か否か、常に平   静さをともなう勇気が求められる。
「仁」:人が持たなければならないやさしさ、愛、寛容、憐憫(あわれみ)の情である。「窮鳥懐に入 れば猟   師もこれを殺さず」という心である。特に民を治める者の必要条件となる。
「礼」:敬意を表す作法である。お茶や華道、その他の人と接する場合に決められた作法を踏襲するこ ととさ   れる。これができなければ「無礼者」ということになる。礼に心がなければ「虚礼」になる。
「誠」:この言葉だけでは分かったようで分からない。易しく言い換えれば「正直」ということであろうか。
「名誉」: (名誉はこの世で最高の善である)といわれても、理解し難い。しかし子供が悪事を働き「恥ずかし   くないのか」という親の言葉なら何となく分かる。武士の時代は「命を捨てても守るべ きもの」であるが、   隠れて「保身のために悪事をする」というのは何時の時代も容認されるもので はない。また職権を利用して   、自分や身内に便宜を図るのも「不名誉」である。
「忠義」:(人の命は地球よりも重い)といわれる現代、この忠義はもっともそぐわないと思われる。
  「忠ならんと欲すれば孝ならず」という事態に「忠」なる方を選ぶのが忠義である。
   主君のため、あるいはお国のためなら自分の命まで差し出すということは、理解できそうもない。
   「武士道」を何回読んでも、この忠義だけは分かったようで分からない。

第一章 執筆後記

人はパンのみに生きるにあらず..... (申命記8.3、マタイ4.4)
 この言葉を引用した後、「ご飯も食べよう」と冗談にいう人がいる。聖書ではこのあと「神の口から出る一つ一つの言葉による」と続く。人は食物だけでなく、精神的なよりどころが必要ということである。技術関係の本に「心の技術」のような内容は見たことがないので、「これは削除した方が良いのでは」と言われることもある。しかし従来の本造りの常識を無視して始めた本作りであり、これは筆者のこだわりでもある。1 章 2 節「何を考えていますか」で紹介したダンカスター著「精神力−その偉大な力」(絶版)は私にとって精神的に大きな支えとなった。ボロボロになっては買い換えて3冊目でもくたびれている。これほどまでに一冊の本を読みこなしたことは自分の経験ではあり得ない。この内容を一口でいえば「前向きに生きよう」ということである。
別の表現をすれば、「積極的に」とか「プラス思考」とか「上を向いて」等となる。ではそういう考えを持つためにはどうするかということであるが、そのことが詳細に述べられている。通常は一つの目次がそれだけで、一冊の本になるような大きなテーマである。読みやすいという本ではないかもしれないが、強い劣等感を持っていた私には最適の本であった。これ一冊あれば「心」に関する他の本は不要になる位である。このような啓蒙書が他に数十冊私の本棚に並んでいるが、その多くは目を通しても「読んだ気がしない」のである。
要するに「心」に達しないのであり、なぜかを考えてみた。それは「題名」が異なっても内容が前記の「精神力.......」に含まれており、すでにそれが十分心に達しているから、同じようなものは何回読んでも、新たな知識にはならないからだと思われる。十分知りつくしている科学的知識を、さらに繰り返し学んでも覚えた気にならないのと似ている。知らないことを学んでこそ知識が増え、それが認識できる。
しかしながら科学的知識と違って、精神的なことは忘れやすいし、他の情報にものすごく影響されやすい。また内容が同じようでも様々な方法で表現出来るので、一見違った新しいものに見える。
故に現在も精神世界に関する本が次々と出版されては消えて行く。内容はあまり変わらず、これまで言われてきたことの焼き直しが多く、姿形を変えているだけのようである。
この「心の技術」にもすでに過去の資料で言い尽くされたことも含まれているかも知れない。それでも時代や人が変わり、表現も変われば新しい「啓発書」として なにがしか「心の糧」になると思うのである。

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